37話 Zweite
前回のあらすじ
中知山和彦から新しいベルトを渡された恒久の前に、【荒牧陽介:牧羊犬】が現れる。
阿知輪晋也によって歪められたイキーカランを阻止しようと必死な中知山の訴えは牧羊犬によって虚しく却下された。
恒久はプロトタイプであったグリアから、カスタマイズされたグリアへ。そのスペックは牧羊犬を遥かに凌駕するものの、グリアの動きは研究され後手に回る。そして消極的になった恒久の思考は、グリアとしての動きを止める。
動きを止めたグリアに対し戦う事の無意味さを説く荒牧陽介は変容を解き生身を曝す。
上空から【狗鷲:秋岡樹】が確認した光景は、変容を解いた荒牧陽介と、新たな力を得たグリアが向き合う姿だった。
ー嫌なシチュエーションだなー
秋岡の脳裏には柚留木美香の姿がよぎる。明るく屈託のない姿と、淀み変り果てた姿が同時に……
たとえ、柚留木美香の捕獲に成功していたとしても、結果に変わりは無かったであろう。しかし秋岡には重要なターニングポイントであり、乗り越えるべきトラウマなのだ。
ここで荒牧陽介を連れて離脱出来るかどうかは、今後の流れを大きく左右する。人はそうやって未だ見ぬ明日へ向かい、自らに波や渦を課し、時に呑まれ、時には乗り、時おり巻き込まれ、それらを糧とし、世俗を渡る。
「お喋りが好きなんだな。」
那知恒久の背後に降り立つ秋岡樹が起こした風が、荒牧陽介の前髪をふわりと持ち上げ、健やかな微笑を溢れさせる。風に乗った声は感情的でも無機質でもなく、ただ、向き合う2人を通り抜けた。
「献身的なプレイスタイルは嫌いじゃないが、犠牲は褒められないな。」
背後からの声に驚くグリアが咄嗟に振り向いても、そこに秋岡樹は居ない。
後方やや右からの声に反応したグリアは右回りに視界を捻る。それは秋岡樹の計算であり誘導。あとは動き出しに合わせて左側を通過していくだけ。その動きはバスケで培ったというより、ドアサービスを優雅に受ける紳士のそれ。
「仕方ないだろ、時間を稼ぐのがボランチの役目なんだから。परिवर्तन」
グリアが裏をつかれた隙に、荒牧陽介は再度【牧羊犬】に変容。2対1、この状況においてもグリアは本来、臆する必要などなかった。
だが、やはりグリアは動けず、【牧羊犬】に360°縦横無尽に動かれ、【狗鷲】に易々と制空権を許し、格好の餌食と成り果てる。空からは鉤爪が降り、地上には牙が走る。身を丸めるグリアからは火花が散り、辺りを閃光が包むと、2体のビシェシュは姿を消していた。
【牧羊犬】をしっかりと掴んで【狗鷲】が空を翔ける。脚に感じる確かな重みが、空を翔けるには少々不自由な枷が、今は何よりも心地よい。
「よく持ち堪えたな。」
「戦闘データのお陰ってのもあるけど、グリアには迷いがあったからな。そうじゃなかったら時間は稼げなかったよ。」
「迷い?」
「自分の意志が固まってないんだろうな。グリアとして戦うというより、理不尽な恐怖に対しての嫌悪ってやつの方が強い。どうやら彼は敵じゃないようだ。」
「子供だな。」
「そんなもんだろ。明確な意志なんて、大人だって持ってやしないさ。」
考え方や意志は、情報や経験に大きく左右される。現代社会において幼い頃の夢や希望を保つ事は難しい。メディアから流される情報はゴシップやスキャンダルだらけ。政治経済は金に汚れ、芸能は性と薬物にまみれ、社会はあらゆるハラスメントに犯されている。
腫れ物に触る様に生きる大人達に明確な意志など在るはずもなく、禁止事項で雁字搦めにして世間を誘導しやすくしているのも、先進国会議で決定された【Keep the world in balance】遂行の為……
1年0組は、その事実を知っている。大多数の人間を堕落させ生気を奪い、極少数の人間が、次のステージへ向かっている事を、その為に自分達が存在している事を。
「まぁいいさ、それより阿知輪ってヤツの方が問題だ。陣内と越猪にはお前から話してくれ。」
荒牧陽介奪還は成功した。
それは、秋岡樹だけでなく、多くの者に大きな意味を持たせる事になる。
➖秋岡樹の部屋➖
「すまない。【Helmsman's】の名に賭けて、誰も【グリア】とは戦わせない筈だったのにな。」
「ヘル……なに?」
「ああ、僕達4人の事を彩花が【Helmsman's】と呼んでくれたんだ。操舵手と云う意味らしい。」
越猪崇と陣内元の会話は、当人同士、至って真面目なのだが、身長差や言葉使いが、どうしても朗らかな雰囲気を出してしまう。
「まぁ、話したとおり、戦闘って言う程じゃないし、気にしないでくれ。」
「グリアから戦闘意欲を奪ったんだ【Helmsman's】としては合格だろ?」
空気感や距離感のバランスが良い荒牧と、常に冷静な秋岡。2人から聞く那知恒久の動向に、越猪は安堵した。
「うん。そうだな。那知君はイキーカランの全容を知っている、出来れば仲間として迎え入れたい。刺激せず様子を見ていこう。」
「そうだね。そして荒牧君の報告どおり、【एकीकरण】を歪めている張本人【阿知輪晋也】をどうにかしないとね。」
「俺達が敵として認識しなきゃいけないのは【阿知輪晋也】って事か。」
「不知火さんにも会っておきたいな。……どうした?越猪。」
越猪は磯貝の事を、この場で話すか迷った。団結を強める必要がある今、わざわざ0組に走る亀裂を公表する意味があるのか。
「いや、なんでもない。4人で集まれた事が心強いと噛みしめていた所さ。」
気恥ずかしい事を堂々と言えるのは越猪崇の特権。【阿知輪晋也】を抑えれば、国家機密【एकीकरण】は正常に戻り、0組は純粋な《QUEST》を遂行。世界を1つのチームにするには、それで良いと自身を納得させた。
➖ 有明エンタープライズ開発室 ➖
「第2幕と言った所か?余興とやらは。」
「退屈凌ぎくらいにはなって頂いているご様子で幸いです。」
「愚者の戯れ事を楽しむのも神の嗜みだと言われれば、お前の言葉にも耳は貸すさ。」
薄暗い部屋を照らすのは幾多のモニターの明かり。青白く浮かぶ阿知輪晋也の横顔と、EMS搭載マッサージチェアに埋もれた不知火凌は、芝居がかった台詞のやりとりを気に入っていた。
「イキーカランの先とやらは見えているのか?」
「お陰様で役者は揃いまして御座います。千知岩孝典様に、お約束のサンプルをお届けする日も近いかと。」
ボウ・アンド・スクレープ 戯けるでもなく、畏まるでもなく、気どったわけでもない。ごく自然にその姿勢をとれるほど、阿知輪晋也の日常は通常からかけ離れ、一般から一線を画す。そして、既に世間から一線を画し仮想空間アースガルズにアクセスしていた千知岩孝典がVRゴーグルを外す。
「なんだ、ワルキューレじゃないか。」
薄明るいモニターの光を避け、ギロギロと蠢いていた視線が何も映っていないモニターに留まると、反射した阿知輪の姿を見つけた。顔も向けず、声に抑揚が無いのは、長時間同じ姿勢であった事よりも、信頼や期待の程度の現れ。互いにプロジェクトのキーマンであっても、まともな対応などされる筈もなく、そこに何かを返すでもない。ただ、阿知輪晋也は頭を垂れたまま顔を歪めて笑う。
「どうだ、お前も他人の人生を体験してみるか?」
「折角ですが、私にはまだ贅沢を愉しむ暇を持ち合わせておりません。」
「ふん、職務に対して真面目だな。息の抜き場を覚えておかんと人間として厚みがでんぞ。」
「薄っぺらい人間を心掛けていませんと、二重スパイの真似事は成り立ちませんので。」
千知岩孝典は「そうか」とだけ残し、手にしたVRゴーグルを弄び眺める。
ー道化と愚者を演じるか……こいつの理想の世界……まぁ、たかが知れているか。ー
ーそうやって偽物の世界に引きこもっているがいい。現実は私が運営してやる。ー
ーどうやら演出を加える必要がありそうだな。ー
薄暗い部屋で三者三様の【歪んだएकीकरण】が交錯すると、中指を鼻筋に添えて掌で口元を隠した不知火が、EMSの影響に無い表情筋を僅かに収縮させる。




