33話 抱えるもの
前回のあらすじ
面接を好感触で終えた那知恒久の目につくのは洋菓子店。バレンタインに張り切る時任咲也と日隠あすかの手作りチョコを思うと気が重い。そんな恒久の気も知らず、日隠あすかは時任咲也の母に教わりながら《生チョコトリュフ》を作る。
一方、那知家には、阿知輪晋也の姿。恒久の帰りを待つ母:暢子へ、那知悠作に最新版【NEURON】でのリハビリを行う事に対しての同意書にサインを求めてきた。暢子は有明エンタープライズの悠作への処遇に溜まっていた不満を阿知輪にぶちまけた。
それを受けて阿知輪は、悠作の長期休暇を約束する。
➖有明エンタープライズ開発部➖
大小様々なモニターが点在する中、不知火凌は退屈な顔を浮かべ、それらを覗いて周り、2周もすると、EMS搭載マッサージチェアに沈み込んだ。
「どうです?」
浮いた応えは返って来ない、そうと解って千知岩は敢えて投げ掛けている。
「思っていた以上に醜悪だな。」
「欲に遠慮が無くなれば当然でしょう?」
モニターに映し出されている醜悪な絵面は、その主人公たる被験者達が想像した其々の理想の世界。自らの欲を理性で抑えられず受刑者となった者達の構築する理想の世界は、どれもこれも俗悪で、現実と大差なく、面白味の欠片も感じられなかった。
「生命の進化が足踏みしている理由だな……」
不知火凌は、パーガル実験場にて被験体となった者達をグラズヘイム計画のサンプルとして利用していた。被験体の多くは、繰り返す《QUEST》の中で隠蔽不可能なミスを犯した者か《QUEST》を拒否した者達。【पागल】で肉体を削られ、【Dritte】で精神を蝕まれ、残された脳はグラズヘイム計画に使われた。
これを不知火は贖罪とした。
千知岩孝典が完成させた仮想空間アースガルズ。そこは、もう1つの地球と言っても過言ではない。例えその身が引き裂かれ、残されたのが脳だけだとしても、自らの肉体も、その身に受ける風も、囁きも、運ばれる匂いも、味も、何もかも、虚無の世界に打ち込まれたプログラムと【समझ】が可能にした脳とデバイスの相互受信により成立する五感のデータ化が、現実と何ら区別なく其れ等を認識させる。
「人類の進化は肉体の外へ向いてしまいましたからね。個体其々は退化したと言っても過言ではないでしょう。」
「知性や品位に欠ける者は動物にすら及ばないか。」
「三大欲求に純粋であろうとするのは、生命としては正しい方向性ですがね。」
「私が見たいのは固定観念や本能に縛られていない理想郷さ。そこには人類の辿るべき道が示唆される」
「それは私も思う所。是非とも、バラエティに富んだサンプルをご提供頂きたいと願うばかりですね。」
「焦らずとも直に嫌と言うほど届くさ。優秀なワルキューレが順調に御活躍だ。」
不知火が中指を鼻に沿わせ、薬指と小指で口元を隠し、下目遣いで千知岩に視線をやると、眉毛だけで返事をした千知岩は、自作のフルダイブゲームに没して行った。
【पागल】を【NEURON】へ転用させれば兵士は容易く誕生する。
痛覚の遮断と視覚情報の改竄が攻撃対象への躊躇を排除し、人格プログラム【Dritte】が任務遂行の確実性を約束させる。
阿知輪晋也は世界各国へのプレゼンテーションとして、老若男女が暴徒化する様子を映像に収めたい。不知火凌・千知岩孝典は暴徒化した【NEURON】のモニターとその被害者を、年齢・性別・思想・趣味嗜好の異なるグラズヘイム計画のサンプルとして欲しい。
【NEURON】を提供している先端医療開発特区での出来事であれば箝口令も敷き易い。
阿知輪のスケジュールは真っ黒に埋まる。
その日は近い。
➖ ➖ ➖
K-POPが流れる母の運転に揺られる事約30分。首から下げた魔法瓶には温かいアールグレイ。両手に抱えたピクニックバスケットにはフォンダンショコラとホイップクリーム。
恒久は、知らない言語をある程度口ずさみながら、その目に景色を流す。意識は母の手作り菓子に向いていた。複雑な思いを含んで帰った家で出迎えてくれたのは、甘い香りと目力強めの母。珍しく散らかった台所に奮闘ぶりが伺える。だが人の努力が必ずしも報われるとは限らない事を恒久は知っている。
「一生懸命作ったんだから、ちゃんと持っててよ。」
言われずとも、その想いは充分に受け取っていた。
「お父さん、喜んでくれるかな。」
「その前に驚いて貰わんと。」
那知暢子がまだ湊崎暢子だった頃、悠作に作ったマホガニーは、薫り・見た目・触感・味、全てにおいて手作り丸出し。“けっこう簡単に作れるよ”そんな無責任な言葉を吐いたバイト先のスタッフを心底逆恨みした。
「これはプロには真似できないな。どれ。」
「え?!いいよ食べなくて。」
「せっかく作ったんだし、食べなきゃ笑い話に出来ないだろ?」
悠作は、しっかりと実の詰まった苦味の強いボソボソのマホガニーを口に放り込むと、その口を直ぐ様への字に曲げて「俺以外には食べさせられないな。」そう言ってのけた。
結婚後、恒久がある程度大きくなって、何かの拍子に作ったビスケットも、母子の口をへの字に曲げさせた。
しかし今回は違う。
「本当に手作り?!凄いな、信じられないよ。」
個室で親子水入らず、フォンダンショコラの仕上がりに、父:悠作は驚きの声をあげる。
「今は作り方も分かり易いし“3度目の正直”って言うやんか。」
恒久が居る事を忘れたかの様にはしゃぐ母:暢子。
「ん!ぁあ〜懐かしいなぁ〜。この生クリームはあん時と同じ味だ!!何だっけ?お酒が少し入ってるんだよね。」
「ラム酒、ダークラムね。よぅそんなん覚えてるわ。」
「マホガニーだっけ?あれは失敗したけど生クリームは本格的で美味しかったから、そのギャップがさ、印象強過ぎて忘れられないよ。」
ヒートアップする両親に置いてかれる恒久……に少々落ち着きを取り戻させられる那知悠作・暢子の両名。
「どっかで電子レンジ借りてくるわ。温めた方が絶対美味しいから。」
暢子はそう言うや否や、顔も心も足取りも、弾ける様に病室を出ていった。個室で父子水入らず。
「……凄いね。」
「お母さんは、ああいう人だよ。」
「いや、分かってるけどさ、なんかいつも以上に。」
「感情丸出しだからな。嬉しかったんだろ、本当にお店で買ったのかと思ったくらいだからな。」
恒久は自然な会話を出来た事に安堵しつつ、この鈍感力満点の父の遺伝子を受継いでいるのかと思うと、不思議と顔が綻んだ。
すっかり緊張感のない中で、悠作が切り出す柔らかい声は、恒久にゆっくりとその台詞を響かせる。
「あのベルト、使ってるのか?」
「うん」
恒久の顔には決意と覚悟が現れていた。
迷いが無い訳ではない。稲葉公太に強要され、巻恵市に否定され、時任咲也に肯定され、日隠あすかに応援されても、何故、自分が【グリア】なのか、疎ましい気持ちは消えなかった。
だが、越猪崇との会話で、具体的な答えを持たずとも、揺がぬ信念を持てると知った。
過去を恨む暇があるなら、今を受け入れた方が良い。と云う心理状態。恒久は【グリア】としてスタート地点に、父を目の前にして、ようやく立てたのだ。
「お母さんは?」
「大丈夫。何にも気付いてないから。」
「そうか、親に隠し事する歳になったか。」
「え?!しないよ。隠し事なんて無いよ。ソレとコレとは違うでしょ!?」
「彼女が出来たら?」
「隠さないよ……でも、わざわざ教える必要もないでしょ?」
「お母さんは、ああいう人だからな。それが正解だろうな。恋愛相談なら、お父さんに任せとけ。」
悠作は多いに笑った。“男子、三日会わざれば刮目して見よ”を我が子で体感しながら【NEURON】のサポートを受けて。
ここで父子の間に水が入る。顔も心も足取りも、崩れる様に個室へ入ってきたのは、柚留木美香だった。




