24話 瓦解
前回のあらすじ
受験を控えた那知恒久は、時任咲也・日隠あすか、と共に初詣に出掛ける。そこに【विशेष】と【पागल】を合わせた柚留木美香が現れる。洗脳システム【Dritte】の影響で別人と化した柚留木に戸惑う恒久と咲也。 卵を意味する【अंडा】を那知恒久に奪われた柚留木美香は、繭を意味する【कोकून】を不知火凌から与えられ、羽化を意味する言葉「उद्भव」を唱える。
突き飛ばされた日隠が振り向くと、そこには逆光に照らされた謎の塊。フィクションなら存在が許されても、現実には受け入れられるものでは無い。「何?あれ……」あまりにも常識外れな事に直面すると、人は理解が追いつかず脳が危険を察知しない。柚留木美香は、人目も憚らず、人智を超えた異形を晒した。
「こんな所で」
この場で正しく恐怖を感じる事が出来たのは那知恒久の経験と時任咲也の免疫。
【विशेष】は人目を嫌う。阿知輪の情報に間違いは無い。只、不知火にとって、国家機密など取るに足りない存在になったと云うだけの話。
後退りする時任咲也に気怠い声が誘う。
「咲也君を迎えに来たんだよ?」
「頼んでねぇよ!」
時任咲也は後へ大きく跳びながら【シュワン】に姿を変えると花紺青の稲妻と化す。低く沈み込んだ体勢から目標へ頭から飛び込んでゆく。
「照れないでよ。教えてあげたでしょ?国家機密【एकीकरण】 私がそう【पागल】と【विशेष】の統合【एकीकरण】 人類の選別は私がする。」
「なんだお前、頭イカれてんのか!」
「素直じゃないんだね、君の気持ちに応えてあげたのに。友達の前だと恥ずかしい?」
「なんで俺がお前の事“好き”みたいになってんだよ!」
花紺青の稲妻は電光石火、だが風に流される様に軽やかな【蛾】には掠りもしない。苛立ちを強める【時任】に宥めるような口調で問いかける。
「私の事“可愛い”って言ってたでしょ?」
「言ってねぇよ。」
投扇興を思わせるたおやかな飛翔。そこに攻撃的な意志はなく、ただフワリと倒れ込む様にヒラリと揺らめく様にスルリと漂う様に【時任咲也】に寄り添う【柚留木美香】
「咲也君って好きな子には意地悪しちゃうタイプなんだ。いいよ、遊んであげる。」
「咲也!」
異様な雰囲気。父の倒れる部屋で初めて【विशेष】に対峙したあの時と似たものを感じる。日隠が異形に感じているソレではない。柚留木美香から感じるソレは決してその姿が醸し出すモノでは無く、どこか危うげなフワフワした雰囲気だった彼女が溜め込んだドロドロした危うげな雰囲気。無理をして《本人以外の意志》に操られると人はそういったモノが洩れてしまう。
『syn apse』
助走と踏切のタイミングはベスト。公式なら自己記録を更新する手応えの背面跳び。【蛾】の頭上でロックの外れたジョイントカバーをスライドさせる。
【グリア】に姿を変えた恒久は【時任】の背後に着地すると胴回りを抱えて体を入れ替える。
「又、私の邪魔するのね。」
あの日、秋岡樹に抱えられて帰る予定を狂わせたのは那知恒久に違い無い。だが柚留木美香の運命を狂わせたのは自身の情報開示のタイミング。自分だけが知っていると云う優越感に浸る為に情報を溜め込んだ報い。【樺黄小町蜘蛛:稲葉公太】が暴走し【グリア】を襲った理由、阿知輪晋也の不可解な行動とそれを黙認する不知火凌の存在。それは1年0組にとって知るべき情報であり、知られてはまずい情報でもある。
【時任咲也】と【柚留木美香】の間に入った【那知恒久】は踏み込んだ右足に向って全身を屈めて溜めを作りつつ、左脚は流れを活かして【柚留木美香】に水面蹴りを繰り出し、回転と体を伸ばす勢いで【時任咲也】を押し飛ばす。
相変わらず【恒久】に戦闘意欲は無い。目の前の化け物を《人間》しかも《憎めない人》だと認識してしまっている。だからといって【グリア】の水面蹴りがいとも簡単に避けられてしまったのは、そういう事ではなく【蛾】の性能の賜。
人間の15倍の可聴域300kHzが可能にする《動きを聴く》
【グリア・シュワン】の動きは、初動に起きる僅かな音を察知され、先読みされててしまう。呼吸・心拍・関節の軋み・地面の摩擦、来ると分かる攻撃を躱すのは容易い。
「お前は嫌いだ!」
速さは無いが空中で自在に姿勢を変えられる【蛾】がその身を翻すと、無数の毒針毛が【グリア】を襲う。
チョウ目ドクガ科の針は返しが有って抜けにくい構造になっており、中にはヒスタミン等の毒液が入っている。0.1〜0.2mm程度の毒針毛は、掻いたり擦ったりすると体内に侵入し炎症を引き起こす。【柚留木】の毒針毛には毒液ではなく爆薬が入っている、言わば爆針毛。コレを付着させておき、翅と鱗粉で発生させた高周波で起爆させる。ひとつひとつの威力は弱いが、連なる様に打ち込まれた爆針毛が爆ぜると【グリア】の装甲に亀裂が走る。
そして、全身に走る爆発と閃光は【恒久】に衝撃を与えた。柚留木美香の何を知っている訳でも無いが【एकीकरण】について語り《QUEST》を説明してくれた時のあどけなさは本物で、こんなにも簡単に平気で誰かを傷付ける人だとは思っていない。だが、姿形は禍々しく、雰囲気はおどろおどろしく、殺傷力の高い武器を携えて、そこに浮いている。阿知輪に連れて行かれた後ろ姿からは想像できる筈もない。
《然るべき所》で行われた事も……
「柚留木さん、あれから何があったんですか?」
「お前のせいだ!秋岡君と松浦さんに怒られた、私はあそこに戻れない。世界は壊れ始めてる、私は【एकीकरण】人類の選別は私がすッ!!」
【時任咲也】の肘が【柚留木美香】の脇腹に突き刺さる。先読みは自動ではない。広範囲の可聴域から必要な音を選んでいる。【恒久】の声に耳を傾け集中力を切らし、剰え、取り乱して声を荒らげた状態では花紺青の稲妻は避けられない。脇腹への衝撃は【柚留木】を境内の裏へ弾き飛ばした。
「咲也、あれは柚留木さんなんだ」
「ナッツン駄目だ、あいつイカれてんだよ。」
「分かってるよ、でも」
「だったら、ぶっ飛ばして大人しくさせるしかないだろ!」
恒久の頭に阿知輪の言葉が浮かぶ。
“話し合いは通じない。今回みたいな【अंडा】を奪って説得なんて考えない事だ”
それは違和感。担任の後ろを歩いた廊下と同じ、小さな違和感。道を用意されているのに窮屈な、選択肢を理不尽に奪われた様な、自分を否定されている様な。知らないうちに行き先を決められて、連れて行かれた結果が望みもしない形、それに異を唱える感情さえも湧かずに……彼女は《QUEST》と称して罪を犯す、柚留木美香を仕方無いと認めてしまったら自分もそうなってしまうんじゃないか、那知恒久の小さな違和感は、確かな強迫観念として心に住み着いた。
「陰でコソコソ悪口を……私をイジメるなぁあ!!」
土煙の中から起き上がった【柚留木美香】が翅を震わせ【グリア・シュワン】の周囲に無数の爆発が起きる。双方の動きが止まった瞬間を上空から監視していた【鷲:秋岡樹】は見逃さない。
「逆ナンなんかしてると、風紀委員に叱られるぞ。」
「秋岡くん……」
急降下した【鷲】は逞しい脚でしっかりと【蛾】を掴んで、その場から飛び去る。それは、あの日に柚留木美香が描いた結末と似て非なるもの。




