phrase.32「それでも悪は、悪の矜持を棄てない」
「……旦那、試合終わったんスかね。結局観れなかったッスよ」
憂い顔で思案するアシュレー。
はあ、とため息をつきながら、左手は横に広げて中空を掴むように拳は半開き。ガタガタと何かが動いている音がしているが、アシュレーは余裕そうによそ見をしている。
その手の先にはギチギチと動こうにも動けない『アウスグス』がいた。ガガガ、と動けば動くほどに岩の身体が削れていく。ミシミシという『アウスグス』にアシュレーは、無言で手を振り下ろすと、ガシャァァン!! と、石の鳥は平伏す。
「何度攻撃しても、無駄ッスよ」
「……そのようだな」
操作すべき駒二つを大破させられたストンホルム。
その身は、ナマスのように切り刻まれている。
再三に渡るアシュレーの不可視の攻撃によって、立っているのもやっとの様子だった。
「なぜそれほどの力を持ちながら、実力を隠していた?」
「なぜ? 簡単なことッスよ」
アシュレーは悪役顔で、揶揄するように嗤う。
「目立ちたくないからッス。矢面に立ちたくないんスよ。フイファン先輩や紫苑がド派手にやってくれればくれるほど、アタシの向けられる目は少なくなるッスから……その点にはおいてだけは一応、感謝してるッスよ。……ほら、どうせなら楽して人生を渡っていきたいじゃないッスか。あの二人が、アッシの盾の役割を果たしてくれればそれいいんスよ」
「……お前のような寄生虫は、見るに耐えないな」
「はあ? 誰かに媚びることがそんなに悪いことッスかね」
弱者は強者のおこぼれをもらい、その身を守ってもらえる。
弱者が媚びへつらうことによって、強者は心の中で強者を見下して満足する。
だいたい、この世界とはそういうものだ。
弱者だって、簡単に騙されている強者を見てほくそ笑んでいる。
そうやって、人間は他人を見下して初めて、ようやくまともな人間関係を築ける。
互いの利益のために成り立っている関係性は、『友情』だとかくだらない繋がりよりも、よっぽど強靭な信頼関係を築けるものだ。
甘言に騙された人間はいつだって足元を掬われ、信頼していた人間に裏切られる。
それならば、人間関係は全て利害関係だと割り切ればいいだけの話だ。
「……だいたい、アンタだってフイファン先輩との戦いは避けたッスよね。勝てないと思ったんスよね。それは心の中で強者に屈服したのと同じッスよ。そうッス。そうやって、弱者は一生強者に平伏して生きていくんス。――こんな風に」
視覚に映らない巨大な怪物の口が、ストンホルムを呑み込み砕くように、地面に平伏せさせる。重力を操っているかのような能力に、ストンホルムは文字通り手も足も出ない。なんとかお得意の洞察力で力の正体を見破ろうとしているが、攻撃そのものが見えなければ不可視の力の正体を解く糸口すら掴めない。
そして、打開策をいつまでも熟考させるほどに、アシュレーは甘くはない。
くいっとアシュレーが、逆の手でタクトを降るようにすると、巨大な岩が持ち上がる。
死の旋律を指揮する指揮者のように手を動かすと、それは身動きできないストンホルムの上にふわふわと浮遊する。
「そうッスね。今すぐ降参するなら、見逃してもいいッスよ。別にアンタにアッシは興味ないッスから」
ストンホルムは、何度も手足を動かそとするが無意味。
どれだけ抵抗しようが、無色透明の攻撃から逃れることはできない。
「それに、あんたはアッシと同じ穴の狢で、きっと分かり合えると思うんスよね。自分の目的のために悪を為す。それでどれだけ他人が傷つこうとも、心は痛まない。アッシとの違いは、その持っていても無駄なプライドだけッス。ほら、どうしたんスか? 今すぐ頭を下げれば楽になるんスよ」
一度牙を収めた獣は、負け犬になり果てる。
あとからどれだけ強さを装っても金メッキ。
強者に尻尾を振るだけの存在となれば、その心を掌握するのは容易いことだ。そうして、自らの手駒として使い捨てにすればいい。
ストンホルムは地面に叩き伏せられたまま、苦痛そうに顔を顰める。
「……そうだな。油断していたとは言え、完全にお前のほうが俺よりも力は上らしい。ここでお前に逆らったとしても、俺は死ぬだろう。ここで敗北宣言すれば退学になり、『三竦み』を打ち破る俺の夢は果たせなくなるものの、死なずにすむんだろうな」
だがな、とストンホルムは付け加えると、
「それでも悪は、悪の矜持を棄てない」
いつもヘラヘラ笑っているアシュレーは、自分の思い通りにいかないことに対して、表情をなくした。そして、薄暗い闇を孕んだような声を出す。
「――だったら、無様に散れ」
ドゴォオン!! と岩の落ちる轟音。
その音から逃げるように、アシュレーは足先を不愉快そうに闘技場へと向ける。
真っ直ぐになれたのなら良かったと、アシュレーは思う。
この世界のことを何も知らずに、弱者のいない世界であったのならいいなと思っていた時もあった。誰かを疑わずに済む時代があればよかったと思った時もあった。頭を下げずに済めば渡れる世間というものがあったらと嘆いた頃もあった。
だがその思い全ては、過去の遺物に過ぎない。
「……アッシにだって、譲れない信念はあるんスよ」
アシュレーは、誰もいない場所で独りごちた。




