phrase.31「――力を失っているのではないのですか?」
蟲の大群は黒い津波となって、フイファンを呑み込む。
咄嗟にフイファンは後方へと大きくバックステップをとって、壁に足を付ける。ドバァン!! と小さな蟲が溢れ返り、フイファンの足元を侵食しそうになる。だがその前にフイファンは弾速の速さで、肘から手元までを折りたたむようにして、肩から激突するように体当たりする。
『蟲姫』は直撃する直前で跳躍して躱す。
そのままの勢いでフイファンは壁に激突して、土煙が上がり、大きめの破片が飛び散る。
『蟲姫』は不敵に笑いながら、空中に留まる。飛び散った破片の一つが頬をかすめそうになるが、それも余裕の表情で最小限の顔の動きで触れさせない。
浮かんでいるように見える靴の裏には、びっしりと羽の生えた蟲がわらわらと集まっている。あらゆる種類の蟲が、独特の奇声を発している。
「その程度の動きでは、舞踏会で女性に恥をかかせてしまいますわよ」
観客席の全員を眠っているが、そろそろ起き上がってくる頃だが、まだ決着はつかない。そろそろこの愉しい戯れにも終止符を打つべきだと考えていた『蟲姫』だったが、唐突に土煙から投擲された岩のような破片に顔を歪ます。
「…………!」
凄まじい勢いの投石に、なんとか両手を交差してガードしたが、羽のもがれた蝶のように地面に足をつける。動揺して蹈鞴を踏んでいると、ぬっとフイファンの姿が煙の中から現れる。
「生憎……ボクは君に踊らされるつもりも、調子も合わせるつもりもないよ。……要は、君がボクの動きについてこれるかどうかだよ」
岩石すら爆砕する渾身の突きを、水月にまともに喰らった『蟲姫』は、身体を折り曲げる。かっ、と声にならない痛みを訴えながら、身体を浮かす。
が、今度はフイファンの顔が歪む。
ぞわりとするような感覚に身を竦ませたフイファンだったが、その予感は的中していた。びっしりとフイファンの手には小さな蟲がまとわりついていて、刃物のような牙を拳に突き立てる。人間の肉を喰らう蟲が拳の威力を分散させたおかげで、『蟲姫』はほとんど無傷だった。
「もっと情熱的な踊りで、ワタクシの心を昂らせてください」
『ゴールドクラス』相手にも、余裕を見せる『蟲姫』だが、失念していた。接近戦こそが、『氣攻道師』の最も本領発揮できる場所であるということを。
そして、読みきれなかった。ずっと懐に入るまでの過程を考え、この一撃がフイファンの本命であるということを。
「しまっ――」
「遅いよ」
蟲に肌を突き破られながら、フイファンの取った行動は退くどころか踏み込んだ。ビキッと、アスファルトの床に亀裂が入るほどのステップイン。ゼロ距離から、掌底のような打ち込みは肉体の外側ではなく、標的の内臓そのものをダイレクトに破壊する。
はずだった。
捉えたと確信していたフイファンの思考の死角をついた『蟲姫』は、口の端を歪める。用心に用心を重ねて、フイファンの横合いに蟲を配置していた。
それは、フイファンが圧倒的力を持っているが故の予防策。
他の誰かだったらフイファンを倒せるであろうという状況で、舌舐りしていたかもしれないが、『蟲姫』は違っていた。フイファンなら、自分の力をさらに上回るであろうという期待と確信があった。
「くっ……そ……っ!」
悪態をついたフイファンの身体を、喰い破る勢いで大量の蟲が体当たりする。それぞれが鋭利な刃物のような牙や、釣り針のような手足を持つ蟲ばかり。それらの蟲が群れをなしてフイファンに突進すると、そのまま壁に激突する。
ドゴォオン!! と轟音を響かすだけでは終わらず、一匹の蟲が空を舞う。
黒い六枚の羽を羽ばたかせる、黄金色に発光する蟲。
大勢を立て直そうとするフイファンの許へと飛んでいき、肩に音も立てずに止まる。ギョッと瞠目したフイファンは、即座に立ち上がろうとするが、全身を黒い蟲に飲み込まれていて首を動かすことも敵わない。
そして、『蟲姫』がパチン、と優雅に指を鳴らすと、閃光が走るとともに大爆発が引き起こされる。自爆させた蟲の起こした爆煙を、ふん、と煙たげに手で払う。
「……ワタクシが、ずっと気になっていたことがあります」
目を眇めて、わざとらしく顎に手を当ててうーんと考えているふり。
「フイファンさん。あなた、この学園に来てから一度も呪符を使っていませんわよね。出し惜しみかとも思いましたが、どうやら違うようですし。も・し・か・し・て?」
愉快そうに、人差し指で鍵盤を叩くように動かす。
「……アナタ、もしかして――力を失っているのではないのですか?」
煙の中で、ピクッと何かが動揺するように動く。
「あのおもちゃを扱うのには、『操術師』にもそれ相応の対価が必要だと思っていましたが。……まさか、あなたほどの人があんな木偶に仮初の命を宿すために、『氣攻道師』としての力の全てを分け与えたのですか……? そう仮定すると……あなたが呪符を使わないことにも一応の説明がつきますわね」
遠距離戦闘では呪符。
中距離戦闘では『纏術装具』。
近距離戦闘では徒手空拳。
この三つが揃ってこそ、フイファンには最強の称号が与えられているはずなのだが、ここまで一方的にやられても徒手空拳以外の戦闘方法を取らないところを見ると、この仮説は恐らく正しい。
「フイファンさん。……あなたは、何がしたいのですか?」
この学園の中でも最強の三人の内の一人の体たらくに、『蟲姫』は冷笑する。
「あの人形が入学最終試験において何をすべきかどうかを、敢えて悪者になることによってヒントを与え……その挙句、フイファンさんの真意に気がついてもらえない。……まったく、お笑い種ですわね」
『蟲姫』の周囲に、また蟲が集まり出す。
その中には、偵察用の蟲。
眼球に映った映像を、自らの視覚と摩り替えられる蟲がいる。その蟲を学園中に張り巡らされているお蔭で、この学園全ての出来事を把握している。
「この学園にあの人形を呼び込んだのも、この学園が一番安全だったからですわよね。……ですが、あの人形は、あなたを恨み続けるでしょう。こんな危険な学園にどうして自分を連れ込んだのかと。普段、どれだけ自分がどれだけフイファンさんに守り続けられているのかも気づかぬまま、ずっと……」
苛立ちげに『蟲姫』は吐き捨てる。
何故なら、悔しかったから。
これだけフイファンに想われているのにも関わらず、のうのうと何も知らずに生きている紫苑が憎かった。
『蟲姫』は、フイファンと一緒にいて誇らしかった。
圧倒的な力を誇り、冷酷な感情を持ち合わせ、目的のためなら手段を選ばない強さを持っていた。
それなのに、少し見ない間に随分と惰弱に成り果ててしまった。
その原因となる人物が、フイファンと出会ったばかりの……しかも世間知らずの平和ボケなお人形だというのだから、納得ができるはずがない。
「なぜなのですか? あなたほどの強さを誇りながら、あんな脆弱な人形に手を貸す、その理由はなんなのですか? 無駄な努力だとわかっていながら、どうしてそこまであの人形にそこまでして尽くすのですか? あなたがいくらあの人形のために何かしたところで、あなたのその心に気づくことはありませんわよ!! ……はっ、まさか、あんな木偶人形に心惹かれたとでも言うつも――」
「彼のことが、好きだからだよ」
『蟲姫』の瞳が大きく見開かれる。
晴れた土煙の中から、ズタズタになった服を引きずるフイファンが眼前に現れる。
いつも無表情なフイファンは、少しばかりトーンの高い声で話し出す。
「彼はボクに救われたと思っているだろうけど、それは全くの逆だよ。……ボクが彼に救われたんだ」
フイファンは折れそうな足を引きずりながら、
「灰色しかなかったボクの世界に、彼は彩りをくれた。退屈なこの世界にだって、光り輝く時があるということを彼が教えてくれたんだ。……他人のことを考えるだけで、こんなにも胸が熱くなるような感情が、こんなボクにもあるということを気付かせてくれた彼を――黒獅子紫苑のことを、ボクは心の底から愛しているんだよ」
それを聞いて、『蟲姫』はたじろいだ。
ほとんど、無傷なはずなのに。
どちらが有利であるのは、誰の目から見ても明白なのに。
それなのに、フイファンの言葉一つ一つが不可視の刃のようで。それに斬られたかのような表情を見せた『蟲姫』は、
「報われない想いを抱いて、一体あなたは何がしたいのですか? どれだけあなたがあの人形に親愛の情を注いだところで、その想いが届くことはありえませんわ。……何故なら、あなたと人形の関係は『操術師』と『隷属』なのですから」
「ボクにだって、報われないことぐらい分かっているよ。……だけどね、それでも捨てきれない想いだってあるんだ」
契約関係であり、服従関係でもある『操術師』と『隷属』。
それを切り離すことなどできない。あきらめたほうが余程、楽になれるというのに。それほどまでに紫苑に執着しているというのなら、こちらから引導を渡すしかない。
「……ですが、この試合。あの人形の敗北です。残念でしたわね、あの人形は、この学園から去らないといけません」
声が上擦りながらも、フイファンを見据える。
「……そうかな。誰がどう見ても、彼らは引き分けだよ。あの戦いでは勝者も敗者もいなかったんだ。だったら、二人ともこの学園に残ることが許されるはずだよね」
「引き分けなんて……そんなもの前例がありませんわ!! 認められるはずがありません!! 試合の内容はヒートリンクスが圧倒していました。そんな特例を、新入生ごときに与えることなど、この学園の『機関』が許しません」
「……でも、君ならこのぐらいの決まりを捻じ曲げることができるはずだよね。……『機関』の裏の顔役の君なら」
『蟲姫』は、不愉快そうに顔をクシャクシャにする。
「……まさか、これを狙ってワタクシを挑発していたのですか? 試合結果を先読みし、ワタクシがこのような強硬手段に出ることも予想した上で?」
「そこまで器用なら、苦労しないんだけどね。生憎と、そこまでボクの頭は回らないよ」
どこまで本気なのか分からない無表情の顔に焦れていると、あちらこちらで声が聞こえる。うめき声のような、観客の声。そろそろ眠りから覚める頃のようだ。
「……そろそろ、お開きのようですわね」
負け惜しみのように『蟲姫』は言葉を吐く。
「まあ、あの人形が真実に近づくことによって、更なる絶望を味わうことになるでしょうね。……そちらの方が、様子見という意味では楽しめそうですわね」
「……君はどこまで、知っているのかな?」
フイファンの顔に、驚きと焦燥が入り混じった色が帯びる。
「ワタクシが知っているのは、あのお人形が求める真実のその先には、今まで以上の地獄が待っているということだけですわ」
蟲がカーテンのようにフイファンと、『蟲姫』との間に割り込んでくる。
「フイファンさん、あなたも薄々気がついていらっしゃるんでしょう? 誰があのお人形の命を奪ったのかぐらい。だから、この学園に入学させたのではないですか?」
ブワァと、フイファンの視界を埋め尽くすほどの蟲が集合離散した時には、もうそこには誰もいなかった。ただ不吉な残響を残して、蟲の大群は中空へと霧消する。
『あのお人形が絶望たる真実を知ったその時。――必ず、その身を自らの手で滅ぼすことになります』
フイファンは、ギリッと拳を握る。
「ボクがそんなことさせないよ。――絶対に」




