01_07怪目_浅葱の薬袋騙り
何処かで猫の声がした。
『黙ってろ、乙姫』
怒気を孕んだ薬袋の声。猫を探して、細川はぐるりと周囲を見渡す。
曲がりなりにも飲食店で、動物?蝸牛もどうかと思うが、猫も衛生的にいかがなものか。細川に狐疑が過る。
「猫まで居るのか……?」
『獣と一緒くたにするな。猫じゃねえわ。乙姫だ』
「はいはい、愛玩動物は家族だね」
『で、くれんの?くれないの?』
笑みを消した薬袋はぎらりと細川へ手を伸ばす。細川の心は既に決まっている。変梃な此の男へ即座に答えるのも癪だ。細川は睨み返す。
薬袋は余裕綽々な顔を造ると、手を懐へ直し、滔々と語る。時折、ふう……と息を継ぎ足しながら。
『急に移したら器が傷つく。時間をかけて、三年と十月十日で移す。移し終わったら、テメェは全部忘れて耀子と平々凡々に生きる』
どうにも癪だが、わかっている。
耀子が脳裏で俺にだけ微笑むから。白いエプロンで夕食を置きながら「あなた、彼の子ったらちっとも宿題しないのよ」独りで生きるだろう俺の甘い妄想。許されない夢だった。急に開けた冀望。
『悪かねぇ話だ。俺は乙姫に僅かな声をやれる、細川……アンタは普通になる』
視界の隅で蝸牛が葉に隠れる。
『人間にゃ、まぁ長い年月だ。俺が約束を反古しない担保に【甕覗の整形眼藥】を貸してやる。回道って男が拵えた良い眼藥だ』
『使い過ぎれば厄介だが、適度に使えば無問題だ。相貌が正紺に染まりきる前に、使うのを止めて、瞳が戻る迄待てば』
『世界が耀いて見える』
こつん。
カウンターに水色の目薬が立つ。遠目で『回道薬局』と読めるシールがお腹に貼ってある。
「かが、……?」
『ツマンねぇ事が多かろ、現世は。なんやかんや面倒や柵、これからも普通のお前に降りかかる。見る世界が耀きゃ、ちったぁマシだ』
『見てくれは醜悪より美麗を人間は好む。景色、料理、容姿。お前も気に入るだろうさ』
『好いた女を片想いのままでいられるってもんだ』
真摯なミナイの瞳が金紅石の煌めきを灯し、細川を見詰める。じぃっと、細川の深淵まで。
細川は悟った。ミナイは細川が仮に断ろうと譲らない。断固として欲しいものを得る為。
覚悟と共に細川を逃がしはしない。
本能的に『異種』を察知し、細川は背中に冷たいものが這う感触に震えた。
同時に、細川の胸中に不可思議な感情が芽生えた。
果たして俺はこの店主のように……懸命に、全身全霊で生きているだろうか。生きれるだろうか。
『頼む』
台詞を切ったミナイは椅子から立って、頭を低く下げた。
余裕綽々な面構えは鳴りを潜め、永久の落胆が泳ぐ悲痛な声色。
「……(返事は決まっている)
(なのに、なんだ。この感情……俺は、こいつに嫉妬してる)」
ぎゅ、と握り締めた細川の拳は、赦されるなら細川自身へ降り下ろしたかった。変わりたいと言いながら、変わりたいと言っていれば、何も変わらずに足踏みしていても許されるだろうと、思っていた自分自身に。
「……(俺にも出来るだろうか)……」
「わかりました。ただし、条件があります」
これは細川の細川による細川への意趣返しだ。
もう猫のような声はしない。




