01_04怪目_店主ミナイ
細川は走った。兎に角、逃げた。三十六計逃げるに如かず。昔から変なモノが聞こえたら、走って逃げたら良かったのに。
ーーぜぇ、ぜぇーー
つ い て き て る 。
ーーはぁ、はぁぁあ、はぁーー
逃げてるのに……振りきれない!
ーーああああぁあぁーー
泣きそうだ。先刻までの日常へ返して。こんなときに限ってこの道を誰も通らない。なんだよ、誰か助けろよ。誰でも良い。今までこんなことなかったのに。目頭が熱い。泣いたって解決しないのに。もう若くない。体力も直に尽きる。立ち止まったら俺はどうなる?駄目だダメだ、考えるな弱気になるな。走れ。今は逃げろ。
ーー欲しぃぃぃいいいあぁぁあーー
俺は声しか聞けないけど、あれは生者のではないと薄薄解ってた。捕まったら死ぬの?死んだらどうなるの?俺もあんな『叫ぶ声』になるの?嫌だ。怖い。嫌な方向にばかり思考が進む。喉の奥で錆の味がした。
こんなところで、俺は終わり?
「だ……、れ、でもいっから……た……けて……っ!」
『矢張、お前ェさん聞こえんだねえ』
え?
気がつけば 派手な男が 隣いる。
はっ、一句詠んでしまった。半泣きの俺の隣で、からんころんからんころん、風流な足元は裸足に下駄だ。大した脚力だ。親指と人差し指の間の皮が……いや、そうじゃない。
「あ、ン……た、誰っ?!」
『お前ェさん、困ってんだろ。助けたげようか』
俺は全力で頷く。そうしてくれ。そうすべきだ。むしろ、そうでないと困る。そもそも助けてくれないならお前に今、存在価値はない!絶対ない!俺の可愛い首ちゃんが悲鳴をあげるほどに頷く。
『お代は貰う、忘れなさんな』
右の口角だけ上げると、派手な着物男はぎゃんっと下駄を鳴らして急に振り返る。俺と何かの間に入るように立ち塞がると、懐から何か出した。
『仕事だ、音姫ェ。急急如律令、……後悔も残さず逝かせて殺れえ』
ーーキァイイイイイイイイイィイイイイーー
ーーぎぃいいいいぃいいいいぃいいいいいいいいっ!ーー
断末魔だ。
ぜえぜえと切れる息を整えながら、初めて聞くおどろおどろしい声に、細川はそれが断末魔だとわかった。
男が懐に何かを大事そうに戻すと、細川へ向きを変えた。ゆっくり歩み寄って。
『怪我はないか?』
「ありま、せ……ありがと、ござ……ます。あの、誰……」
『ミナイだ。薬袋古道具屋の店主をしてる』
「よろ……し、く?」
差し出された手を握り返す。ピリッ……、と静電気が走った気がする。
『目印、完成』
「は?」
『こっちの話。
俺の店が近くに在る。ここは危ないからそっちに移動せんか?』
……怪しい。
助けてくれたのは感謝する。でも、怪しい。ほいほい着いていって、危ない目に遭うのは御免だ。
(だと言うのに)
惹かれる。
ミナイの瞳に、油断すれば即決で『是』と答えそうな自分がいる。
『面倒だ、とっとと歩け』
いや、だとか、その、だとか口ごもりながら細川は迷う。店主を信用に足るか品定めを始めた。
彼は長い黒橡の癖毛を胸で結っている。飾り紐の両端には丸く赤い尖晶石が揺れている。瞳は墨なのだが光の加減でルチルのように紅く見える。なかなかの美丈夫だが、如何せん装いが変だと細川は思う。
紅白の市松模様の長襦袢、藍の着流しに派手な女物の羽織を着て、走ったせいか前が乱れている。変なのに、妖艶だ。
こういった人間は稀少種だ。
どうしよう。好奇心はある。どうしようもない。
『早く来ィな』
紅い眼が今度は問うのでなく、歩き始めた。
答えを知っている笑顔で、道の先から手招きしている。俺の足は、踵を返せなかった。
『俺の目印に逆らおうなんざ百年早ェわ』
「……っ!わかったよ、わかりましたよ~!!茶くらい飲ませてもらいますからねっ!」
『……bruyant』
「今、絶対。悪口、言いましたよね?ねえ?……あっ、今、舌打ちもしましたよね?!」




