1 アリジゴク -1-
十月の初め。
雪ノ下忍は、ため息をつきながら夕方の道を歩いていた。手には、ママの実家から送ってきた梨の包み。
「彩名ちゃんの家に持って行ってちょうだい」
と、ママは言った。
「久しぶりなんだから、ちょっとおしゃべりしてきてもいいのよ。夕ご飯は、七時くらいになるからね」
彩名というのは、小学校の時の友達の名前だ。いや、正確に言うと、『小学校の時の友達だとママが思っている』子の名前だ。
小さな頃は、本当に友達だった。それが変わったのは、いつからだったか。
卒業間近には、彩名たちのグループから忍はかなり激しいいじめを受けていた。
ママは、そのことを知らない。彩名たちは、大人の前では『いい友達』を演じたから。
お姉ちゃんが今の学校に誘ってくれて良かった、と思う。
姉の千草は、中高一貫、全寮制の女子校である『百花園女学院』に通っていて。
「忍も受けたらいいんじゃない? いい学校だから」
と、言ってくれたのだ。
本当は、パパとママは反対だったのは知っている。ママたちは、中学に上がってからお姉ちゃんがすっかり家を離れてしまった、と淋しがっていて。
「いくら有名な私立校だからって、あんなところに入れなければ良かったね」
と、いつも言っていたから。だから、忍には受験をしてほしくなかったのだ。
「忍も、小学校からのお友だちと一緒の方がいいわよね? 地元の公立中学も、結構評判いいみたいよ」
なんて言ったりして。
だけど。そんな未来は、忍にとって真っ暗なものだったから。
お姉ちゃんが受験のことを言い出してくれた時、
「行きたい。私、お姉ちゃんと同じ学校に行きたい」
と。飛びつくように、言ったのだ。
パパとママは何とかそれを諦めさせようと、いろんなことを言ったけど。お姉ちゃんの口添えもあり、最後は受験をさせてくれた。
ただ、長いお休みには二人そろって必ず帰ってくるのが条件だった。
二期制の百花園には、この時期『秋休み』がある。土日を合わせて四日間の短い休みだけれど、入学の時の条件を満たすため、忍はお姉ちゃんと一緒に帰宅している。
重い梨の袋を見下ろして、ため息をつく。行きたくない。
でも、行かないわけにもいかない。断る理由がなかった。
彩名が外出していればいい。彩名のお母さんがいれば、渡して帰ろう。いなかったら……そのまま、戻ればいいだけだ。
坂の上の、大きな家。そこが彩名の家だ。
彩名のお父さんとお母さんは、だいぶ前に離婚している。お母さんは仕事をしている人だったから、生活には困っていない。
チャイムを押して、しばらく待つ。
もう帰ろうかと思った時、中から鍵を回す音がして、ドアが細く開いた。
「忍じゃん」
しかめた眉と、白い骨ばった顔に、目ばかりが大きくて目立つ。ウエーブのかかった髪は、流行の形にセットされていて、服装も可愛い。小学校の時のままの、彩名がこちらをのぞいていた。
口許が、意地悪く歪められる。
「帰って来てたんだ。何の用?」
忍は、気後れする。いつもこうだ。彩名の前だと、怯えてしまう。
「梨。お母さんが、持ってけって」
それだけ言って、紙袋を差し出した。
「ふうん」
彩名は、いぶかしげな顔でそれを受け取る。
それから、忍を見てもう一度、嗤った。
「入ってきなよ。久しぶりだし、話したいじゃん。アンタの学校って、どんなとこ?」
「もうすぐ夕ご飯だから。もう、帰らないと」
小さな嘘で、抵抗する。
「いいじゃないよ。久しぶりなんだよ? アンタ、何。友だちをもっと大事にしないとダメなんだよ」
手が伸びてくる。ブラウス越しに、強く腕を掴まれる。
痛みに、忍は顔をしかめた。
「ほら。入って入って」
そうして。無理矢理、引きずり込まれる。
アリジゴクの巣に引き込まれる、虫のようだ。そんな風に、思った。




