第十節 氷の影王①...本性チラ見
1年目5月9日(日)
「姉さん、後ちょっとでつくっスけど、いいっスか?」
「うん。お願いしや~す。」
上手く開かない眼を擦り、微妙な味のスープを口に含む。
たぶん、おいしい...肥えすぎた舌の所為で、普通の料理を楽しめなくなるのは憎い。
けれど、神秘的な深海をゆっくり進む游房の中で、女性と二人きりの朝食はなかなかいい。相方の女性が強面の顔をしている事と、今の俺自身も「女性」という事以外、文句のつけようがない。
...くっそおぉ!
「姉さん、ちょっよ、訊いていいっスか?」
「ん?な~に、大きい妹?」
俺への呼称が「アネサン」に決まったようだが、年上に「姉」呼びされるのは妙な気分だ。
いや、それ以前に「性別」に違和感を覚えるべきか、俺。
「おっお、大きい妹...?
姉さん、昨日も訊いたけど、御隠居様にマジで会うのか?」
「ん~...なに、急に?」
もうすぐで着くっていうのに、何で今更?
「たぶん、揉まれるけど。御隠居様だと、てぇ出せねぇ。」
「揉まれるって、何を?」
「姉さんの女の子の部分。」
「...あー。」
虎穴に入らずんば虎児を得ず。
されたい訳じゃないけど、覚悟はできている。その分、価値のある返事をもらう予定だ。
「死ぬ訳でもないし、何とかなりますよ~。」
束ねていない髪を解して退かし、だらしなく背もたれに頭を預ける。
「連絡はしたのでしょう?今になって反故ってのもダメでしょう。」
「肝が据わってるのか、無鉄砲なだけか。
姉さん、極道者より恐れ知らずなところがあるな。」
「そ~んな事ないよ~。」
恐れ知らずとかじゃない。体が女の子だが、まだ一度も「貞操の危機」というものを経験した事がないから、呑気で居られたんだと思う。
経験がないから、覚悟しようにも気持ちが中途半端、イマイチ緊張感を持てない。本当に大丈夫かなって、自分でも思う。
「海の中でも、意外と明るいね~、って思ったのも昨日まで。やはり深い所はきちんと暗いわね?」
言いながら、ガラスの外へ目を向く。
「ねぇ、あの夜空に輝く星のようにキラキラしているのは何?光るお魚さん?」
「生き物らしいが、魚かどうかは...」
「線のように上に伸びているけど、竜宮の使いかな?」
「りゅうぐう?
線のように見えっけど、何十匹も繋がっているだけらしい。一匹一匹は小さい。」
「群生生物でしたのか。
凄く綺麗に光ってるけど、アレは餌を引き寄せる為なのかな?
ねぇ、何で光ってるの?どういう名前の生き物です?」
「...さぁ?」
「さぁって...」
望様ぁ!蝶水さんと変わって!この娘、不勉強だよ。
「喰われる為らしい。」
あ、よかった。不勉強って程じゃなかったのか。
「喰われる為?逆ではなくて?」
「他の生き物に喰われて、卵を寄生させるらしい。」
「ほへ~、そんな生物もいるのだね。
ねぇ、それで寄生後は?そのお魚さんは死ぬの?」
「...さぁ?」
...後で自分で調べておこう。
「蝶水さんってさ。」
机の上から手を伸ばして、蝶水さんの腕を突く。
「肌、綺麗よね。」
「あ、ありがとうござ―ス。」
「この国の人はみんな、肌白いね。やっぱ、太陽の下に住んでないから?」
「さぁ?種族性にも関係あるじゃん?」
「紫外線が海の底まで届かないから、みんな白いではないのかな?」
「しがいせん?」
「...蝶水さんって、肌、綺麗よね。」
「え?ありがとうござぃっス。」
会話を続けさせるのって大変だな。疲れちまった。
「顔の火傷、もう何もできないのですか?折角肌が綺麗ですから。」
「これはこれで便利っスよ。ドスの効く声が苦手っスから、見た目で少しでも先手取りたいっス。」
声と見た目...
「何となくだけど、もしかして...蝶水さんは昔、人懐っこい感じな女の子でしたの?」
「人懐っこいっすかね?おべっかはケッコ言ったかな。」
「やはり裏社会と言えば上下関係?大変でした?」
「姉さんは心配いらなくなくないっスか?
お嬢もいる事だし。組長になれんくても、歯向かう奴はいねっスよ。」
「あー、いいえ。そういう話がしたい訳ではなくて。
私は蝶水さんの話が聞きたいのですよ。」
「そ、そっスか?
えっと、どんな話がいい?」
「蝶水さんの昔の話。昔はどんな人でしたのか...顔の火傷の物語、とか?」
少し踏み込んでみた。
一時的に一緒に行動する事になったけど、別に深い仲になる必要はないから、彼女の過去に踏み込む価値はない。逆に踏み込んだ事によって、彼女の怒りを買う事もありえるから、適切な距離を開けとくのが無難なんだよ。
けどな~。折角心が開きやすい二人きりの状況だから、どこまで彼女の心へ踏み込めるか、試したくなるでしょう?
「もう治らないのは本当に残念です。けれど、何かあってそうなったのか、気になりますわ。顔の傷は女の子にとっての致命傷でしょう?」
「...私だけの話じゃないっスから、言っていいすかどうか。」
「言っていい範囲でいいですよ。蝶水さんに関する話だけでダイジョウブ。」
「そう?
なら...こりゃ昔、まだ生意気小僧の頃の事だか。自分は誰よりも当時のお嬢――姉さんのお袋の今の組長――の役に立てると思って、大事にされるくれぇの力を持っていると思って、調子に乗って火遊びしたっス。組から抜けた奴を制裁すると意気込んで、そいつに返り討ちされたっスね。
いいや、正確には『遊ばれた』っスね。そいつは私の後の奴とやり合う為、力残してた。
飛び回ってる蝶のつもりで、実はとっくに蜘蛛の網にくっついてた。メスガキだったっスね、マジカッコ悪かった。」
「メスガキかー。」
今の雛枝みたいな感じ?
「何かがあったのは分かりましたが、具体的な話は聞けないのです?」
「いやいやまぁ...姉さんのオヤジと組長が中心の話っスから、私が勝手には、あー、なぁ。」
「お父様とお母様の?何の話だろー?」
お母様には聞けそうにないね。我慢して、帰ってお父様に訊くしかない。
あれ?なんか、お父様に訊かなきゃいけない事が多すぎてないか?そろそろメモに残すか?
「蝶水さんはその時、誰かは知らないけど、顔に傷を負わせたのですね。」
「そんなところっス。」
「むぅ、物語って程長い話ではなかったから、フルバージョンを聞かせてくれません?」
「割と組長の黒歴史っスから、組長に訊いた方がいいっスね。」
蝶水さんは口の軽い人間ではない、と。
けど、言葉巧みに誘導すれば、うっかり漏らしてくれる感じがするな。忠誠心があっても、重臣にできないタイプな人間。
敵側にいる隠れ味方、間抜けなお人好し敵、内部分裂に使える色を間違えた駒...知識としてお父様から教われているが、俺が知り合えた人間の中、蝶水さんが初めてだと思う。
強面な怖いヤクザだと思ってたが、今は割とどこにでもいる可愛い女の子に見えてきた。
「お母様の黒歴史か。
ね!ここだけの話にするから、私にだけ教えてくれません?」
「いや。けど、組長の話っスから。」
「私、娘じゃないですか!お母様の黒歴史でも、家族の私なら、お母様と笑い話で済みますわ。
ですから、さぁ。蝶水さんから聞いたのを黙っておきますから、教えてくださいよ。」
「そりゃ...そうっスね。母娘っスからね。
けど、本当にいいっスか?」
迷ってるか。もう一押しで教えてくれそうだ。
が、やめよう。
「...着きましたね。」
もうちょっと蝶水さんで遊びたかったけど、時間切れで、外の景色から游房がゆっくり浮上していくのが分かる。
「第五の区・蛇尾区。最も面積が広い区でありながら、最も人口が少ない、氷の国最寒の地。
ごめん、蝶水さん。やはりやめておきます。」
「えっ?でも、私は...!」
「お母様に訊けばいいだけの話なのに、無理して蝶水さんから聞き出そうとするのは良くありませんね。蝶水さんの立場をちゃんと考えるべきでした。
もう着いた事ですし、後でお母様に直接に訊くから、蝶水さんは無理しないで。」
「姉さんがそう言うなら。」
ゴムで髪を適当にまとめて、俺は游房の外へ出る為の「重装備」に着替える為、一度游房下層へ向かった。
......
...
断熱保温な服を何着も着込んでいたせいか、お爺様が住む別荘までの道のりが酷く長く感じた。
そして、何故かその別荘の前に着くと、雪原の真ん中にポツンと建つその別荘に苛立ちを覚えた。
「なんか、どこかで見た事あるぅ。」
守澄邸もこんな感じだったな。
周りが森で、学園への道のみがその森の外へと繋ぐ道。自然を愛する人達にとって、著しく景観を損なう建物だった。
「立地とか、建物のデザインとか。この建物を見ると、建築家のセンスがいかに重要かが分かりますね。」
横長い長屋みたいな建物で、真ん中辺りだけが何故か半円のような形で、まるで腕にできた膿胞のような作りとなっている。
設計者は馬鹿か?もしくは喰鮫組への嫌がらせか?
「我慢して寒空の下を歩いた甲斐がない。馬車があればよかった。」
という文句を口にしたが、雪原を走る馬車がまだ見た事がないなぁ。あるとしても橇だろう、あの犬が引っ張るヤツ。
「あ、すんません!呼べばよかったっスね。」
「...あるんだ。」
早苗メイド長ちゃんの有能さに慣れ過ぎてしまって、世の殆どの人は気遣いが下手である事に失念していた。前もって蝶水さんに一言を掛けておいてだら、もしかして馬車に乗れて、雪原を重り付きで歩く事がなかったかも。
...今更か。
「玄関はどこ?どこからこの長い建物に入れるのです?」
「えっと、あっちっス。」
「アッチ?」
「案内するんで、ついて来てください。」
言われるかままに蝶水さんの後をついて行く事にしたが、実のところ大分寒さと疲れで精神が参っているので、裏門でもいいから、早く中に入りたい。
だが、幸いにすぐに目的地に着けた。
「先に入るんで、ちょっと待っててくだせぇ。」
「えぇっ!?」
俺の返事を待たずに、蝶水さんは玄関のクソ重そうなドアを開けて、一人で中に入った。
外に残された俺は戸惑った。「ちょっと待ってて」ってのは中で待っててもいいのか、中に入っちゃダメなのか、それが分からなかったからだ。
寒いよ。服が重いから脱ぎたいよ。っていうか、何で待つのかの理由を教えてから行ってくれない?先に行って、残された方はどうすればいい?ここで逝けばいいの?
「マジで気遣いが足りねぇな、あの娘っ子。」
なんか俺の方が色々蝶水さんに気遣えている感じがするので、それをやめると思い、俺は「待ってて」の言葉を無視し、ドアに手を当てた。
「はァ?聞いてねぇな。くだらねぇ事とか、考えてねぇの?」
「昨日直接御隠居様に連絡して、約束取れてる。
確認を。」
「知らねぇんよ。
組長でもねぇのに、御隠居様の気を煩わせられんよ。」
「...今日はマジもんな大物が来てるんだ。さっさと御隠居様に報告しろ。」
「偉そうに。
ここは喰鮫組の地じゃねぇ、御隠居様のシマだ。おめぇが幅効かせられるところじゃねぇ。」
「...偉そうなのはどっちだか。御隠居様の下に付いた途端、いい気になりやがって。
入ったばかりの頃、誰がテメェの面倒を見てきたか、その腐った脳みそに残ってねぇの?」
「アァン、今何つった?」
「御隠居様のところでケンカしてぇなら、買ってやるよ。
今でも、私が上だって事、教え込んでやらぁ!」
「チッ!舎弟頭かなんか知らんけど、御隠居様の下のオレがおめぇの言う事を従ういわれはねぇ。」
「なんた、ビビったのか?」
「ここは名簿にある女しか通れねぇ!通りたければ、名簿に乗れるくれぇの顔に変えてから来い。」
「テメェは相変わらず、口先だけっスね。」
ヤクザ同士の口喧嘩、初めて見た。
なんというか...想像してたより、小物同士の喧嘩っぽいな。タマタマ?
しかし、終わりが見えない。いつになったらお爺様に会えるんだろう?
見た感じ、向こうは完全に虎の威を借った狐だな。蝶水さんに絡んで、何かアマミを欲しがっている様だが、何を欲してるんだろう?
...交渉してみないと何も分からないか。
「あのぅ...」
良くても悪絡みだろうと思いながら、俺は前に出てみた。
「あん?
...おぉ、若ぇメス?」
「いや、アレは『メス』じゃなくて...」
「なんた、献上品か!そんなら話は別だ、御隠居様は喜ぶぞ。」
下衆な笑いを浮かべながら、「狐」が俺に寄ってくる。
はぁ...想像通りに絡んできた。俺、「あの」しか言ってないのに、早くない?
「御隠居様に会えるかどうか、まずオレが試食してみねぇとなぁ。」
許可も取らずに、男は俺のコートの帽子を取った。
...幸い、体に変化はなかった。
避けようと思えば避けられるけど、避けたところでまた触ってくるに違いない。その時はもっと強引になるだろうし、避けられないだろうから、一回目で避けるメリットが全くない。
ここに望様やメイド隊のみんながいたら、こんな勝手も許さなかっただろうが、蝶水さんは俺の体の事情を知らないから、仕方がない。
「胸大きいのに、全然ガキじゃん!こりゃ、俺が............お嬢!?」
言いながら、男は後ずさっていく。
至近距離の為、顔が良く見える。見る見るにその血の色が引いて行くのが面白かった。
ナル~!俺の事を雛枝だと勘違いしたのか。面白い。
「ねぇ?」
「すんませんすんませんすぅません!」
男が思い切りに自分の頭を地面につけた、音が聞こえる程に強く。
「気の迷いっす!魔が差したです!頭足りねぇバッケェのオレを許してくれぇ!」
男は何度も何度も、頭で地面を叩く。
俺はまだ「ねぇ」しか言ってないんだけど。言葉ですらないただの掛け声なんだけど。
雛枝、お前は凄いな。奈苗と同じ可愛らしい顔をしているのに、どれだけの悪行を積んだら、こんなに恐れられるようになれるんだろう?
...ネタバラシを後にして、ちょっとこの男で遊ぶか。
「ねぇ、孫娘がお爺様に会いたいのに、どうして邪魔をするのです?」
「お、爺、様?」
「お爺様に会いたいのですけど、ダメ?」
「いゃ、いやあ...」
「胸大きいのに、全然ガキのあたしだけど。試食、します?」
「ひっ、ひぃぃ!」
まだ特に何もしていないというのに、男は頭を隠すように地面に額を擦り付けて、全身が震えている。先程に啖呵を切られた蝶水さんは離れた場所で俺と男のやり取りを見守って、何も言わないようにしているが、その行動の理由は何だろうなぁ?
「ねぇ、中に入りたいんだけど、どうすれば入れるのですぅ?」
「は、ぇ、どうっ...入、れまっ!お嬢が入り、たいなら...」
「なんか名簿があるのですよね?何の名簿は分かりませんが、その名簿に名前を載るのに、何をすればいいのでしょう?」
「え?いぃやぁ...」
上擦った声。
話の流れから、イケナイ名簿である事はすぐに分かったが、純真な娘を演じてみた。
けど、俺がカマトトぶってるのを相手も分かっているし、分かっているからこそ返事に困るという反応が面白いんだ。
「お爺様にお取次ぎ、願いませんか?今は何もしないであげる。」
「今は...?」
弄りが度を越さないよう、止めようとしたが、過敏になっているのか、男は俺の言葉を深読みしてるかのようにオウム返しする。
「何もしないであげるから、お爺様に声を掛けてきてくれません?」
「は、はい!」
返事をして、男は立ち上がって、俺に背を向けて去って行く。
が、何故か途中で足を止めた。
「ご、御隠居様は丁度いら、しゃらなくて...」
「いらっしゃらない?でも、蝶水と話してた時はいるような風だったけどぉ?」
「じ、実はいなくて!オレが伝言役で、御隠居様がいなくて。」
「そう?そうなんだ。」
何で今になって拒んできた?雛枝の事を怖がっていたのではなかったのか?
だが、初対面な人に、しかも感じの悪い態度を取った人に、気遣いをするつもりはない。
「嘘を吐いていないよね?
あたしに嘘を吐いたら、どうなるのかは分かりますよね?」
「そ、そのっ。」
「昨日はきちんとアポを取っているけど、お爺様が嘘を吐いたのかな?
ねぇ、お爺様があたしに嘘を吐いたの?それとも、嘘ついたのは、アナタ?」
「おっ、御隠居様はー!お嬢はー!」
「ちょっと中に入って確認してもいいのかね?お爺様がいるかどうか、チラ見させて。」
「そん、そのぉ!お、オレっ!」
もう人が出すような声ではなくなっている。
お前をイジメるつもりはもうないから、さっさとお爺様に声を掛けてきなよ、ぼーっと立っていないで、さぁ。
「何をすればいいのか、アナタが選びなさい。アナタ自身が選ぶの。いい?」
「えら、ぶ...」
「選ぶの。」
精一杯な甘い声を出して、逆に不気味さを増しておこう。
最後にネタバラシする予定だったけれど、ちょっと怠くなったから、止める事にしよう。気遣いはできるとしても、するかどうかは俺の気分次第だ。
「......」
「ん?」
男は何故か動かなくなった。
「あの、もしもし?」
軽く男の背中を叩いてみた。
...無反応。
「あのー?」
更に強く叩いてみた。
が、急に男が膝を曲げて、床に座り込んだ。
え、腰抜けた?
「えっと、名の知らない伝言の人?」
「......」
何故かずっと返事がない。
何事だと思いながら、俺は男の前に回り込んで、その顔を覗き込もうとしたが、途中で床に小さな水溜まりがある事に気が付いた。
...いや、水溜まりじゃない。色が赤いから。
「まさか。」
男の体を揺らしてみた。けど、反応がなかった。
続いて顔に耳を寄せて、息しているかどうかを確かめた。
していない。息を吐いている音しか聞こえてこない。
目も虚ろって、光がない。体も、もちろん震えていない。
そして、極めつけに心臓の辺りにナイフがあって、男はそのナイフを強く握りしめている。
「蝶水さーん、治癒魔法できるぅ?」
ちょっと離れている蝶水さんに助けを呼んだ。
「この人、自殺した~。」
「マジ!?」
慌てて駆け寄ってくる蝶水さん、すぐに男の状態を確認する。
「...もう息絶えてる。」
「死んだの?」
「死んだスね。」
「助からない?」
「地味に『症状悪化』の魔道具っスから、お嬢以外は助けやれんっしょ。」
「一応、雛枝を呼んでくれません?」
「分かりました。」
蝶水さんは手を耳に当てて、念話の魔法を発動した。
しっかしマジか、この程度のプレッシャーで自死するのか。心、弱っ!
最大限の手を尽くすが、もし間に合わなかったら...
「駄目っス、お嬢は呼び出しに出ない。」
「出ないのか。」
この世界の念話魔法は本当に携帯みたいだな。拒否も出来るし、保留も出来る。呼び出し無視も出来る。
ただ、「気づかなかった」って事はできないから、出ないって事なら何かの用事で出られない、もしくは出たくないという事だ。
「別に死んでほしいと思ってないのに。」
男の手を動かして、その胸に刺してるナイフを引き抜く。
「生きていようか死んでいようか、私にとってどうでもいい事なのに。」
どこにでも売ってるようなナイフに見えるのだが、魔道具なのか?あまり体に影響が来ないけど、安物か?
「意外と冷静っスね、姉さん。」
「意外?
あ、そうですね!反応がちょっと淡泊でしたね。」
「淡泊って...姉さんの年頃の娘なら、普通怖がるもんだと思うんだけど、姉さんは場慣れした感じがするっス。
姉さんの目の前の奴、もう死体っすよ。胸の傷口を見て、平気なんスか?」
「まぁね。」
リアル死体を見るのは流石にまだ二回目だが、前世の一回目以後はネットでグロ画像を色々探して、耐性は付いている。
けど、間近で見るのは初めてだ。見事な傷口だな、肉が裂けているのがよく見える。これ程大きい傷口なら普段の生活でまず見かけられない。
折角だし、指を入れてみるか?どんな感触かが知りたい。
「姉さん?」
「えっ?いや、触ろうとしていないわよ!」
いかんいかん!手が汚れるから、傷口には触らないでおこう。
ナイフもいらないので、返してあげよう。
「姉さん!?」
「ん?どしたの?」
「どうして小刀を刺し戻した?」
「別にいらないからです。」
「でも、同じ場所に...」
口を噤む蝶水さん...
ふむ、ちょっと頭を回していないな、俺。蝶水さんの気持ちを汲んであげてない。
彼女の望むキャラに近づけてやるか。
「手にしたのはいいものの、ちょっと怖くなったから、元の場所に戻すと思って。
けど、人に刺しちゃうよくなかったのですね。ちょっと頭がボーっとしてて。」
「あ、そうっスか。姉さん、びっくりしてるだけっスか。」
「びっくりは...してます、かね?
それより蝶水さん、ど真ん中で邪魔だから、退かすの手伝ってくれます?」
「......」
怪訝な顔で俺を見る蝶水さんだが、男の死体を俺から奪って、角のところへ投げ捨てた。
人一人を軽々しく投げるとか、この世界の人間は本当に力持ちだな。
自分より大きくて重い物は持ち上げるだけでも大変だと思うけど、筋力強化の魔法や、そういう特性を持ってなくても、ソレを投げれるのはどういう理屈だろう?アリが自分より百倍重い物を持ち上げられることは知っているけど。
「姉さん、死体を見慣れてるっスか?」
「見慣れ?てはいないわ、今日が初めてですね。」
「にしては反応が通常じゃねぇ。お嬢も別格だが、姉さんの反応は一般の人のそれとは違い過ぎる。
あの守澄がどういう教育手法で子育てしたかが気になるか。姉さん、実は死人をよく見かけったり、しねぇっスか?」
「あはっ...」
苦笑いをしてしまった。
嘘を吐いていないのに、信じてくれない。でも、本当の事を言ったら、バカに見られるのは目に見えている。
「死体を目にするのは初めてよ。」
タマは死体じゃない。
「反応が普通じゃないのなら、どういう反応すればいいの?」
この世界の人、みんな普通じゃないのに。
「そうじゃなくて...姉さん?」
「ん?」
「...す、すんません。」
突然、蝶水さんが崩れるように床に座った。
「えっ、蝶水さん?」
慌てて近寄ったが、蝶水さんが俺を見ないようにしたいのか、頭を低くした。
「姉さんに逆らうつもりじゃねっス。ナマ言ってすんません。」
「えぇ?ちょ、どうしました?」
「姉さんが言いたくねぇっスなら、私...なんも聞いてねっス!」
「よく分からないけど、蝶水さん?私が分かります?」
「へい!お嬢の姉さん、御隠居様の孫、私の親分。」
「親分!?違う、私!喰鮫組とは関係ない一般人ですよ。蝶水さんの親分ではありません。
分かります?」
「...そうっスね。すんません。」
蝶水さんは頭をゆっくりに上げる。
「今のは何です、蝶水さん?もしかして、誰かに魔法を掛けられました。」
「そういう訳じゃないっス。」
「でも、様子がおかしかったのですわ。何で急に私の事を『親分』とか?」
「...姉さんが御隠居様に重ねてしまって。」
「お爺様に?」
重ねる部分があったか?
性別が違うし、極道者と一般人だし。重ねる部分は...まさか、中身の俺の性別の部分?
いや、それだけで「重なってしまう」訳がないか。
「すいません、姉さん。もう姉さんのやる事に口出ししないっス。」
「えっ、いや謝るような事では...どうかしましたの、蝶水さん?」
「何でもないっス。」
「私をお爺様に重ねて、って言いましたね。どこを重ねて、どうして急に態度を変えたの?
もしかして、お爺様に何かされました?そして、私も同じような事をすると感じたのですか?」
「そういう訳では...違うか。」
「私は蝶水さんと仲良くなりたいけど、そうならなくても、下げるような事はしたくありません。
もし私からお爺様と重なるような悪い所があるのなら、直す努力するから、教えてくれません?」
「いや...私が過剰な反応をしただけみたいっス。
そうスね。同じ行動を一回しただけで、同じ人って訳でもないっスね。」
「それはそうだけど...蝶水さんに過剰な反応をさせた私の行動って、何です?益々気になりますわね。」
「笑い方が一瞬、似たような気がしただけっス。」
「笑い方?」
下衆な笑い方をした訳じゃないよな。
もしそうだったら、俺はショックで守澄邸に戻るぞ。
「御隠居様がよくする笑みで、その笑みが出た時、大体その後、御隠居様に笑みを浮かべさせた奴がロクでもない目に合う。
喰鮫組の奴らなら、誰も御隠居様のあの笑い方を恐れてると思うっス。」
「そうなのですか。
そして、私が同じような笑い方をしたのですか。」
困ったとちょっと感じたあの時の苦笑いが、お爺様の喰鮫組トラウマ笑いに似ていたのか?
いや、似てるのはあくまでその瞬間に出た笑みだけか。笑い方が似てる訳じゃないか。
安心していいのかな?
「き、気にしないってくだせぇ、姉さん!一瞬だけ、見間違うだけかもしれないっスし!
そうっスね!反応なんて、『普通』も何もないっスよ!私が気にしすぎで、キッショいだけっスよ!」
「蝶水さんはキッショくないわよ。大丈夫ですから、もう分かりましたから。」
気になるのはお爺様だ。
性別も違うのに、俺が一瞬お爺様と似た笑みを浮かべただけで、蝶水さんの態度が豹変した。それ程のトラウマを彼女に植え付けていたという事だ。
女の子の心の中にトラウマを植え付けた事も許せないけど...これは本当にいざという時、蝶水さんに護ってもらえないんだろうなぁ。
「気が重いけど、お爺様に会いに入りましょうか。」
クソ重い服も脱ぎ捨てて、近くの机の上にほっぽり出す。
「鬼が出るか蛇が出るか。まぁ、仏は絶対に出て来ないでしょうね。」
マジで気が重いけど、会うと決めたのは俺だ。もし、何かを失うような事になったら、失ったモノの分、利息込みでお爺様に払ってもらう。




