第6話 君は、私を怖がらない
湯気が、甘い香りを乗せて立ち昇る。
放課後の生徒会室。
ここでの「治療」も、日課として定着して二週間が経った。
「……カモミールか」
「はい。鎮静作用を高めにブレンドしました」
ソファに座るルーカス様へ、ティーカップを差し出す。
彼は書類仕事の手を止め、それを受け取った。
最初のような張り詰めた殺気は、今の彼にはない。
目の下に薄くあった隈も、このところ随分と薄くなっている。
「いつもすまない」
「お仕事の一環ですので」
わたくしは彼の隣に腰掛け、慣れた手つきでこめかみに手を添えた。
微弱な治癒魔力を流す。
予防的なメンテナンスだ。
彼の黒髪が、わたくしの指先をくすぐる。
「……セレス」
不意に、彼が低い声で名を呼んだ。
「はい」
「君は、噂を聞かないのか」
「噂、ですか?」
「私が冷酷で、人の心を持たない怪物だという噂だ」
手元の動きを止めずに、わたくしは瞬きをした。
もちろん知っている。
政敵を無表情で切り捨て、王位のためなら肉親すら利用する「氷の王子」。
社交界では、彼と目を合わせるだけで凍りつくとまで言われている。
「聞いてはおりますが」
「なら、なぜ逃げない。……怖くはないのか」
ルーカス様が、探るような視線をこちらに向けてくる。
その瞳の奥には、拒絶されることを予期して身構えるような、硬い光があった。
(ああ、この方は)
わたくしは心の中で苦笑した。
やはり、ただの不器用な少年だ。
慢性的な痛みを抱え、周囲からは恐れられ、孤独の中で戦っている。
そんな患者を前にして、逃げ出す看護師がどこにいるというのか。
「怖くありませんわ」
きっぱりと答える。
「わたくしが見ているのは、噂の『氷の王子』ではありません。今、ここで頭痛と戦いながら公務をこなす、努力家のルーカス様ですもの」
「……努力家」
「ええ。それに、患者様がどんなに不機嫌でも、わたくしは気にしません。痛いときは誰だって余裕がなくなりますから」
わたくしの言葉に、ルーカス様はぽかんと口を開けた。
それから、ふっと力が抜けたように笑う。
氷が解けるような、あどけない笑みだった。
「……君には敵わないな」
彼はティーカップをサイドテーブルに置くと、わたくしの手首を掴んだ。
そのまま引き寄せ、自分の額に押し当てる。
「私の中には、自分でも制御できない『何か』がいる」
閉じられた瞼が震えている。
彼の声は、懺悔をするように静かだった。
「時々、自分が自分でなくなるような感覚に襲われる。感情が暴走して、全てを壊してしまいそうになるんだ。……それが、怖い」
初めて聞く弱音だった。
これが彼の抱える病の本質なのだろうか。
精神的な発作のようなものかもしれない。
わたくしは空いているもう片方の手を、彼の頭にそっと乗せた。
髪を撫でる。
「大丈夫です」
「……セレス?」
「もし暴走しそうになったら、わたくしが止めます。貴方の痛みも、不安も、全部わたくしの魔法で溶かしてみせますから」
根拠はない。
けれど、攻撃魔法ゼロのわたくしにできるのは、癒やすことだけだ。
絶対に治してみせるという意志を込めて、魔力を注ぐ。
ルーカス様は、わたくしの掌に顔を埋めるようにして、深く息を吐いた。
「……ああ。君が側にいると、静かだ」
「ええ」
「世界が、凪いでいく」
彼の手が、わたくしの指に絡まる。
その体温は、出会った頃のような氷の冷たさではなく、人肌の温かさを帯びていた。
わたくしは彼が落ち着くまで、その背をゆっくりとさすり続けた。
この温もりが、いずれわたくしの平穏な生活を揺るがすほどの「執着」へと変わることを、まだ知らずに。




