第3話 推しの気配と、名もなき患者
放課後の図書室は、古紙とインクの匂いで満ちていた。
静寂。
窓から差し込む夕日が、舞い遊ぶ埃を金色に染めている。
わたくしは薬草学の専門書を探すため、人気の少ない奥の閲覧スペースへと足を踏み入れた。
攻撃魔法が使えない以上、座学で知識を蓄えるしかない。
地味だが、確実な生存戦略だ。
「……ッ、う……」
書架の角を曲がったとき、微かな呻き声が耳を打った。
足を止める。
一番奥の窓際。
机に突っ伏すようにして、一人の男子生徒がうずくまっていた。
(急病人!?)
わたくしの中の「元看護師」スイッチが即座に入った。
本を抱え直すのも忘れ、早足で駆け寄る。
制服の肩が小刻みに震えているのが見えた。
「もし、大丈夫ですか?」
声をかけながら、背中に手を伸ばす。
彼はビクリと反応し、机に額を擦り付けたまま、鋭い声で拒絶した。
「……来るな」
「ですが、お加減が悪いのでは」
「放っておけ……消えろ」
地を這うような低い声。
ただの反抗期ではない。
声に滲むのは、明らかな苦痛と、余裕のなさ。
(この反応、激しい疼痛発作……あるいは過換気?)
彼の周りの空気が、妙に冷たく張り詰めている気がする。
顔は見えない。
見えるのは、夜の闇を切り取ったような漆黒の髪だけだ。
わたくしは躊躇わず、彼の隣に膝をついた。
「消えません。患者を置いて逃げる趣味はありませんので」
彼の右手が、机の端を白くなるほど強く握りしめている。
わたくしはその冷え切った手に、自分の手を重ねた。
「な……ッ!?」
彼が息を呑む。
構わず、わたくしは彼の手指をこじ開けようと力を込めた。
筋肉が強張っている。
相当な痛みのはずだ。
「力を抜いて。深呼吸です。吸って、吐いて」
努めて落ち着いた声で語りかける。
同時に、重ねた掌から魔力を流し込んだ。
怪我ではないから、直接的な「ヒール」は効かないかもしれない。
けれど、神経の高ぶりを鎮め、痛覚を麻痺させるイメージなら届くはずだ。
(大丈夫、大丈夫。痛いの痛いの、飛んでいけ)
幼子をあやすような呪文を心の中で唱える。
わたくしの治癒魔力は、温かいスープのようにじんわりと彼の手を包み込んでいく。
少しずつ。
本当に少しずつだが、彼の手から強張りが解けていった。
荒かった呼吸のリズムが整い始める。
「……貴様、なにを……」
困惑したような、けれど先ほどよりずっと穏やかな声。
わたくしは彼の手の中に、自分のハンカチを押し込んだ。
刺繍入りの、肌触りの良いシルクだ。
たっぷりと「鎮痛」と「安らぎ」の魔力を込めてある。
「お守りです。辛いときは、それを握っていてください」
これ以上ここにいれば、彼のプライドを傷つけるかもしれない。
男子生徒というのは、弱っている姿を女子に見られたくない生き物だ。
わたくしは素早く立ち上がった。
「では、お大事に」
一礼して、逃げるようにその場を離れる。
数歩進んでから、ふと振り返った。
彼はまだ突っ伏したままだったが、その手にはしっかりと、わたくしの白いハンカチが握りしめられている。
夕日に透ける黒髪が、どこか見覚えのある色に見えた。
(あの髪色……まさか、ルーカス様?)
わたくしの最推しである、第二王子。
ゲームの中では「氷の王子」と呼ばれ、常に冷徹で、他人を寄せ付けない孤高の存在。
けれど、あんな風に苦しむイベントなんてあっただろうか?
(いいえ、まさか。あの方はもっと完璧で、雲の上の存在ですもの)
きっと、髪色が似ているだけの別人だ。
そう結論づけ、わたくしは図書室を後にした。
手のひらに残る、氷のように冷たかった彼の体温を、無意識にスカートの布地で拭いながら。




