第2話 震える指先と、窓の外の影
拾い上げた紙の感触は、羊皮紙特有の滑らかさではなかった。
指先に、ざらりとした不快な刺激が走る。
以前、大聖堂で浄化したあの『聖杯』。
あれに触れた時と同じ。
粘りつくような、どす黒い錆の感触。
「……セレス、それを離せ」
上からルーカス様の声が降ってきた。
声の温度が、先ほどよりさらに数度下がっている。
見上げると、彼はわたくしが手に持った親書を、忌々しいものでも見るかのように睨みつけていた。
その瞳は、もはや青い氷ではない。
底の見えない、昏い深淵のようだ。
「……汚らわしい。君が触れるようなものではないんだ」
「ルーカス様、これ……」
「捨てろ。騎士たちに処理させる」
彼はわたくしの手から乱暴に紙を奪い取ると、控えていた騎士の一人に投げつけた。
騎士が慌ててそれを受け取る。
「全軍に伝達だ。第一、第二騎士団は即刻国境へ。第三、第四は王都の防衛を固めろ。……一歩たりとも、帝国軍をこの国の土に踏ませるな」
「はっ!」
騎士たちが一斉に退室していく。
鎧の擦れる重厚な音だけが、広い広間に虚しく響いた。
◇
数時間後。
王宮は、蜂の巣を突いたような騒ぎになっていた。
松明の光が廊下を走り、兵士たちの怒号が遠くで聞こえる。
わたくしはルーカス様の私室にいた。
部屋の隅に置かれた暖炉には火が入っているが、少しも暖かく感じられない。
ソファの端に座り、膝の上で指を組む。
指先が、さきほどの親書の感触を覚えていて、微かに震えていた。
ルーカス様は窓際に立ち、暗い庭園を見下ろしている。
その背中は、近づくことを拒絶しているようにさえ見えた。
「……ルーカス様」
呼びかけると、彼はゆっくりと振り返った。
眼鏡を外し、眉間を指で押さえている。
その顔には、隠しきれない疲労が滲んでいた。
「……セレス。まだ起きていたのか」
「眠れるわけがありませんわ。三日後には戦争だなんて」
「心配しなくていい。君は、私が守る」
彼は歩み寄り、わたくしの前に膝をついた。
大きな手が、わたくしの両手を包み込む。
握りしめる力が強すぎて、少しだけ痛い。
「たとえ国を捨ててでも、君を渡しはしない。帝国に奪わせるくらいなら、私は……」
言葉が途切れる。
彼の瞳の中に、一瞬だけ、ゾッとするような暗い光が宿った。
それは愛ではなく、狂気に近い執着。
わたくしを自分の腕の中に閉じ込め、誰の目にも触れさせたくないという、剥き出しの独占欲だ。
「ルーカス様」
わたくしは彼の手を、逆に握り返した。
冷たい。
魔力は安定しているはずなのに、体温が奪われている。
「わたくし、あの親書に触れた時、感じましたの」
「……何の話だ」
「聖杯と同じですわ。あの紙には、重度の『腐食の呪い』が染み付いていました。おそらく、書いた本人……帝国皇太子の魔力ですわね」
ルーカス様の動きが止まった。
わたくしは、脳裏に浮かぶイメージを正確に言葉にする。
「あれは、略奪のための手紙ではありません。……悲鳴ですわ」
「悲鳴だと?」
「ええ。書いた方は、もう限界のはずです。肉体が腐り落ちる寸前の、耐え難い激痛。……わたくしの治癒魔法を求めているのは、政治的な理由だけではない。ただ、助かりたい一心なのですわ」
ナースとしての直感だ。
あの不自然なほど傲慢な文面。
即座の宣戦布告。
それは余裕のある者の行動ではない。
死に直面し、理性を失った患者が暴れているような。
「それがどうした」
ルーカス様の声が、地を這うように低くなった。
「事情など関係ない。君を苦しめ、この国を脅かしている事実は変わらないんだ。奴が病だろうが死にかけだろうが、私は容赦しない」
「ルーカス様!」
「黙れ」
彼はわたくしを、ソファに押し倒すようにして抱きしめた。
顔を肩に埋められ、彼の荒い呼吸が直接首筋に当たる。
「私の前で、他の男を救おうとするな。……頼むから。君までいなくなったら、私は本当に……」
最後の方は、消え入りそうな声だった。
強引な態度の裏側にある、震えるような孤独。
わたくしは、彼の背中にそっと腕を回した。
今は何を言っても届かない。
ただ、この体温を伝えることしかできない。
◇
深夜。
自室に戻されたわたくしは、パジャマ姿で窓辺に座っていた。
ルーカス様が付けてくれた護衛たちが、扉の外にいる気配がする。
テーブルの上には、密かに持ち帰った、親書の破片が置いてあった。
ルーカス様が投げ捨てた際、微かに千切れた一部だ。
指先を、その紙片にかざす。
集中力を高め、自身の魔力を糸のように細く通していく。
(……やはり。これは普通の病気ではありませんわ)
魔力を通した瞬間、黒い火花が散った。
細胞を壊し、再生を阻害し、ただただ「腐敗」を撒き散らす意志を持った魔力。
帝国皇太子は、今この瞬間も、生きたまま溶けていくような痛みに耐えているはずだ。
だからこその、最短期間での宣戦布告。
三日。
それが、彼の命の期限なのかもしれない。
(戦争なんて、誰も幸せになりません。……あの方を治せれば、全て止まるのかしら)
けれど、わたくしは幽閉同然の身だ。
ルーカス様がわたくしを国境へ出すはずがない。
どうすれば。
思案に暮れていた、その時。
――コン。
窓ガラスを叩く、小さな音がした。
わたくしは心臓が口から飛び出しそうになった。
ここは塔の三階だ。
外には足場などない。
恐る恐る、カーテンを引く。
そこには。
月光を背に、窓枠に掴まって張り付く影があった。
全身を夜の闇に溶け込ませたような、黒い装束。
顔は布で覆われ、瞳だけが不気味に光っている。
(あ、あの時の……!)
貧民街で見た、井戸に毒を撒いていた『黒い服の男』。
なぜ、こんな場所に。
悲鳴を上げようとした口を、自分の手で塞ぐ。
男は窓越しに、一本の小瓶を掲げて見せた。
中には、親書と同じ、あの不気味な紫色の煙が渦巻いている。
男は窓を指差し、それから自分の首を指でなぞる仕草をした。
――喋るな。
そう命じている。
わたくしの平穏な日常は、この瞬間、決定的に音を立てて崩れ去った。




