第1話 隣国からの求婚は、宣戦布告と共に
最終章スタートです!!
最後まで楽しんでいってください〜!!
テラスのテーブルには、手つかずの紅茶が残されていた。
湯気はもう立っていない。
カップの縁に触れると、すっかり冷え切っていた。
ルーカス様が席を立ってから、三十分が経過している。
「……戻ってきませんわね」
王宮の奥からは、何の音沙汰もない。
静かすぎる。
それが逆に、嵐の前の静けさのようで肌が粟立つ。
相手はガルディア帝国の使者だという。
軍事力に優れた大国であり、我が国とは長年、緊張状態にある隣国だ。
そんな相手が「聖女の引き渡し」を求めてきたのだ。
ルーカス様の性格を考えれば、穏便な話し合いで済むはずがない。
最悪の場合、謁見の間が氷漬けになっている可能性がある。
「じっとしていられませんわ」
わたくしは椅子から立ち上がった。
平和に生きたい。
その願いとは裏腹に、足は勝手に出口へと向かっていた。
◇
王宮の廊下を早足で進む。
ヒールの音が、やけに高く響いた。
すれ違う侍女や文官たちの顔色が悪い。
皆、何かに怯えるように足早に去っていく。
空気の温度が、進むごとに下がっていく気がした。
謁見の間の前まで来ると、そこには近衛騎士たちが立ち尽くしていた。
重厚な扉は閉ざされているが、隙間から冷気が漏れ出している。
「セレスティーナ様!?」
騎士の一人が、わたくしに気づいて駆け寄ってきた。
顔面蒼白だ。
「いけません、ここは危険です! 殿下より、誰も通すなと……」
「中はどうなっていますの?」
「そ、それが……一触即発と言いますか、空気が凍りついていて……」
物理的に凍っているのだろうか。
騎士の鎧の表面に、うっすらと霜が降りているのが見えた。
「通してください。わたくしが行かなければ、もっと酷いことになりますわ」
「しかし!」
「当事者はわたくしです。隠れているわけにはいきません」
制止する騎士の手を、そっと押しやる。
彼は迷うように視線を彷徨わせたが、最後には観念したように道を空けた。
わたくしは深呼吸を一つ。
覚悟を決めて、重たい扉に手をかけた。
ギィィ、と蝶番が軋む音を立てて、扉が開く。
瞬間。
肌を刺すような冷気が吹き抜けた。
広い謁見の間。
赤い絨毯が敷かれたその空間は、異様な緊張感に包まれていた。
玉座の前に立つのは、ルーカス様だ。
背中しか見えないが、その周囲の床は白く凍りつき、氷の結晶が花のように咲き乱れている。
彼から立ち昇る魔力は、怒りというよりも、もっと鋭利な殺意に近い。
対峙しているのは、数人の男たち。
豪奢な軍服に身を包んでいる。
帝国の使者団だ。
先頭に立つ男が、口の端を歪めて笑っていた。
四十代半ばだろうか。
左目に眼帯をした、歴戦の軍人といった風貌だ。
ルーカス様の放つ殺気を前にしても、動じる様子がない。
「――ですから、申し上げているでしょう」
男の野太い声が響く。
「我が帝国の皇太子殿下は、セレスティーナ嬢を所望しておられるのです。彼女の『聖女』としての力は、帝国にこそふさわしい」
「断る」
ルーカス様の声は、氷点下だった。
「彼女はモノではない。私の婚約者だ。貴様らの都合で譲り渡すなど、あり得ない」
「婚約者? 正式な婚姻はまだでしょう? ならば交渉の余地はある」
使者の男は、挑発するように肩をすくめた。
「我が国は、彼女に対して正妃の座を用意しております。小国の第二王子の妻に収まるより、大陸の覇者たる帝国の皇太子妃となるほうが、彼女にとっても幸せではありませんか?」
ピキッ。
乾いた音がした。
ルーカス様の足元から、氷の棘が床を走る。
「……私の前で、彼女を侮辱するか」
「事実を述べたまでです」
「消えろ。二度とその口を開くな」
空気が震えた。
ルーカス様が右手を上げる。
魔力が収束し、巨大な氷塊が頭上に生成される。
威嚇ではない。
本気で叩き潰すつもりだ。
騎士たちが息を呑む。
使者の背後にいる護衛たちが、慌てて剣に手をかけた。
しかし、眼帯の男だけは、不敵な笑みを崩さなかった。
懐から、一通の書状を取り出す。
「力尽くで追い返しますか? 結構。ですが、これをご覧になってからにしたほうがよろしい」
男は書状を掲げた。
赤い封蝋が押されている。
帝国の紋章だ。
「これは皇太子殿下からの親書です。『もしセレスティーナ嬢の引き渡しを拒むならば、我が国は貴国に対し、即座に宣戦を布告する』と」
宣戦布告。
その言葉に、謁見の間が凍りついた。
物理的な冷気とは違う、戦慄が走る。
「……脅しか」
「選択肢を提示しているのです。一人の女を差し出すか、国を戦火に包むか。賢明なる王族ならば、どちらが正しい選択かお分かりでしょう?」
卑劣だ。
わたくし一人のために、国を人質に取るなんて。
ルーカス様の背中が、怒りで震えているのが分かった。
彼は絶対にわたくしを渡さない。
たとえ、国中を敵に回しても。
けれど、そんな選択を彼にさせてはいけない。
彼の手を、血で汚させるわけにはいかない。
「――お待ちください」
わたくしは声を上げた。
扉を大きく開け放ち、絨毯の上を進み出る。
「セレス!?」
ルーカス様が驚いて振り返る。
その瞳にあった険しい殺気が、わたくしを見た瞬間に揺らいだ。
「なぜ来た! 部屋にいろと言っただろう!」
「こんな騒ぎになっていて、じっとしていられるわけがありませんわ」
わたくしは彼の隣に並び立った。
そして、そっと彼の手を握る。
冷たい。
氷のように冷え切っている。
わたくしは両手で包み込み、体温を伝えるように強く握り返した。
「大丈夫です、ルーカス様」
小声で囁く。
彼の手から、強張った力が少しだけ抜けた。
わたくしは前を向き、眼帯の使者を見据えた。
男が値踏みするような視線を向けてくる。
不快だ。
まるで市場の商品を見るような目つき。
「お初にお目にかかります。セレスティーナ・フォン・アルヴァレスです」
「ほう。噂以上の美貌だ。これなら殿下もお喜びになる」
「勘違いなさらないでください」
わたくしは毅然と言い放った。
「わたくしはモノではありません。誰かに『差し出される』ものでも、『所望される』ものでもありませんわ」
「……何が言いたい?」
「わたくしの居場所は、わたくし自身が決めます。そして、その場所はここです」
繋いだ手を掲げてみせる。
「わたくしはルーカス様の婚約者です。帝国がどのような条件を出そうと、どれほどの軍勢で脅そうと、この手を離すつもりはありません」
言い切った。
使者の目が細められる。
「……それが、国を滅ぼすことになってもですか?」
「滅ぼさせませんわ」
「ほう?」
「わたくしたちが、守り抜きますから」
ハッタリではない。
疫病から王都を救ったときのように。
二人なら、どんな理不尽も覆せる。
そう信じている。
使者の男は、しばらく無言でわたくしを睨みつけていた。
やがて、フンと鼻を鳴らす。
「……威勢だけはいい。だが、その選択がどのような結果を招くか、すぐに思い知ることになるでしょう」
男は踵を返した。
書状を床に投げ捨て、部下たちと共に扉へと向かう。
「国境には既に我が軍が集結しております。猶予は三日。……せいぜい、最後の逢瀬を楽しむことですな」
捨て台詞を残し、使者たちは去っていった。
重い扉が閉まる音が、広間に響く。
残されたのは、床に落ちた赤い封蝋の書状と、凍りついた空気だけ。
「……すまない、セレス」
ルーカス様が、苦しげに呟いた。
握っていた手が、微かに震えている。
「君を巻き込んでしまった。私がもっと強ければ、あんな口は利かせなかったのに」
「謝らないでください」
わたくしは首を横に振った。
彼のせいではない。
これは、わたくし自身の問題だ。
「それより、どうなさいますか? 三日後には戦争ですわ」
「……迎え撃つしかない。騎士団を総動員し、国境の砦を固める」
ルーカス様の瞳に、暗い光が宿る。
それは、多くの血が流れる未来を予見している目だった。
平和に生きたい。
その願いは、もはや風前の灯火だ。
けれど、ただ震えて待っているつもりはない。
(戦争なんて、させませんわ)
わたくしは心の中で誓った。
売り言葉に買い言葉で戦争になどなれば、それこそ寝覚めが悪い。
ナースとして、そして聖女として。
もっとマシな解決方法があるはずだ。
床に落ちた宣戦布告の書状を拾い上げる。
その紙の冷たさが、これからの過酷な日々を告げているようだった。




