第10話 届かない光と、氷の提案
学園の保健室奥にある特別隔離室。
重苦しい静寂の中、荒い呼吸音だけが響いていた。
「……うぅ、っ……」
ベッドの上で、リリアさんが苦悶の声を漏らす。
その白い肌は、無数の黒い斑点に覆われていた。
まるでインクを撒き散らしたような、禍々しい模様。
わたくしは彼女の手を握り、必死に魔力を注ぎ続けていた。
「大丈夫、大丈夫ですよ。すぐに良くなりますから」
嘘だ。
全然良くならない。
わたくしの治癒魔法で黒い影を消し去っても、数秒後には別の場所から新たな影が湧き出してくる。
まるで、体内で無限に増殖しているようだ。
貧民街の子供よりも進行が早い。
リリアさんの持つ高い魔力が、皮肉にも病原体の餌になっているのかもしれない。
(くっ……押し負けますわ!)
額から汗が滴り落ちる。
指先が震える。
昨夜からの不眠不休の対応で、わたくしの魔力も限界に近い。
けれど、手を離せば、その瞬間に彼女の命の灯火が消えてしまいそうで、離せない。
「……セレス、ティーナ……さま……」
熱に浮かされたリリアさんが、うわ言のようにわたくしの名を呼んだ。
「ごめんなさい……もっと、きれいに……掃除、しなきゃ……」
「リリアさん? 喋らないで」
「あそこの……ドブ川も……セレス様が通るから……きれいに……」
言葉の意味を理解した瞬間、心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走った。
掃除。
親衛隊の活動だ。
彼女はわたくしが快適に過ごせるように、学園周辺だけでなく、貧民街に近いエリアまで清掃活動を広げていたのだ。
そこで、あの「黒い粉」に触れてしまったのだろう。
(わたくしの、せいですわ……)
視界が滲む。
わたくしが「平和に生きたい」なんて言ったから。
彼女はそれを守ろうとして、こんな目に遭っている。
それなのに、わたくしは彼女一人救えないのか。
聖女だ、英雄だと持て囃されても、一番大切な友人を守れないなら、何の意味があるというの。
「嫌……死なせない。絶対に」
奥歯を噛みしめる。
魔力回路を無理やりこじ開ける。
身体中が悲鳴を上げているが、構うものか。
自分の命を削ってでも、この黒い影を焼き尽くしてやる。
その時だった。
ガチャリ、と扉が開いた。
「セレス、やめろ!」
鋭い声と共に、強い力で肩を引かれた。
魔力の供給が途切れる。
わたくしは反動でよろめき、背後の人物の胸に倒れ込んだ。
「離して! まだ治療が……!」
「君が死ぬぞ! 鏡を見てみろ、顔色が土気色だ!」
ルーカス様だった。
彼は防護用のマスク越しでも分かるほど、必死な形相でわたくしを支えていた。
「ですが、リリアさんが……! わたくしがやらなきゃ、彼女が死んでしまいます!」
「落ち着け。君が倒れたら、誰が彼女を治すんだ」
ルーカス様はわたくしを強く抱きしめ、暴れる身体を制止した。
その腕の冷たさに、少しだけ頭が冷える。
そうだ。
わたくしが倒れれば、リリアさんは確実に助からない。
「……でも、どうすれば。通常の治癒魔法では、増殖スピードに追いつけません」
「ああ、見ているとそうらしいな」
ルーカス様は冷静にリリアさんの様子を観察した。
黒い斑点は、わたくしが手を離した数秒の間にも、じわじわと広がっている。
「奴らは、君の光の魔力から逃げるように動いている。そして、逃げた先で増えている」
「はい。まるで意思があるみたいに……」
「なら、動きを止めればいい」
ルーカス様が、静かに言った。
「動きを止める?」
「私の魔力を使え」
彼は手袋を外し、リリアさんのもう片方の手に触れようとした。
「私の魔力は、全てを凍らせ、停滞させる。これで病原体の活動を強制的に停止させることはできないか?」
「凍らせる……」
目から鱗が落ちる思いだった。
わたくしは「治す」ことばかり考えていた。
けれど、相手が増殖する生物なら、まずはその活動を止めるのが先決だ。
低温保存のように、時間を止めてしまえばいい。
「……危険ですわ。制御を誤れば、リリアさんの心臓まで止まってしまいます」
「だから、君が必要なんだ」
ルーカス様はわたくしを見つめた。
その瞳には、揺るぎない信頼が宿っている。
「私が凍らせ、君がその隙に切除し、再生させる。二人の魔力を完全に同調させるんだ。……できるか?」
高度な連携だ。
少しでもタイミングがずれれば、リリアさんの命はない。
けれど、今のわたくしたちにならできる気がした。
あの吹雪の日、互いの魔力をぶつけ合い、溶け合わせたわたくしたちなら。
「……やりましょう」
わたくしは涙を拭い、再びリリアさんの手を握った。
反対側の手を、ルーカス様が握る。
「行こう、セレス。二人で彼女を救い出すぞ」
彼の冷たい魔力と、わたくしの温かい魔力。
相反する二つの力が、一つの回路で繋がった。




