第7話 これはデートではなく、極秘の視察です
放課後の生徒会室。
いつものようにルーカス様の頭痛ケア(という名のマッサージ)を終えたときだった。
「セレス。この後、時間は空いているか?」
彼が書類を片付けながら尋ねてきた。
少しそわそわしているように見える。
「ええ、特に予定はありませんが」
「なら、付き合ってほしい場所がある。……街の視察だ」
視察。
なるほど、公務だ。
最近は教会の件で騒がしかったから、民衆の様子を確認しておきたいのだろう。
次期国王としての責任感には頭が下がる。
「お供しますわ。護衛の騎士は何名ほど?」
「いや、二人きりで行く」
ルーカス様は懐から二つの眼鏡を取り出した。
黒縁の、少し野暮ったいデザインだ。
「認識阻害の魔道具だ。これをかければ、私たちが王族や公爵令嬢だとは気づかれない。お忍びだ」
「まあ、スパイみたいで楽しそうですわね」
わたくしは面白がって眼鏡を受け取った。
二人きりのお忍び視察。
響きは少しドキドキするが、あくまで仕事だ。
そう、仕事に決まっている。
◇
王都の城下町は、夕暮れ時の活気に満ちていた。
石畳のメインストリートには露店が並び、仕事帰りの人々や買い物客でごった返している。
「はぐれるなよ」
ルーカス様が自然に手を差し出してきた。
普段の制服ではなく、シンプルなシャツとベスト姿。
眼鏡をかけていても隠しきれないスタイルの良さに、すれ違う女性たちが振り返る。
「はい」
わたくしはその手を握り返した。
大きくて、温かい手だ。
以前のような氷の冷たさはもうない。
「あ、見てください。クレープですわ」
「……食べるか?」
「はい! あちらの串焼きも美味しそうです!」
視察という名目は開始五分で崩壊した。
わたくしたちは完全に観光客として通りを歩いていた。
クレープを頬張り、珍しい雑貨を冷やかし、大道芸人のパフォーマンスに拍手を送る。
ルーカス様は常にわたくしの歩調に合わせ、人混みから守るように肩を抱いてくれた。
その横顔は、学園で見せる「氷の王子」の仮面を外し、年相応の青年のように柔らかい。
(こんな風に笑う方でしたのね)
胸の奥がくすぐったくなる。
患者としての彼しか見ていなかったけれど、今の彼は頼もしい一人の男性だ。
「セレス、少し待て」
アクセサリーを扱う露店の前で、彼が足を止めた。
色とりどりのガラス玉や、銀細工が並んでいる。
彼は真剣な眼差しで商品を吟味し、一つを手に取った。
「これを」
「えっ?」
店主に銀貨を渡し、戻ってきた彼の手には、アメジスト色の石がついた髪飾りがあった。
わたくしの瞳と同じ色だ。
「つけてもいいか?」
「あ、はい……」
断る理由もなく、わたくしは背を向けた。
彼の手が髪に触れる。
不器用な指使いで、髪飾りが留められた。
「……よく似合う」
耳元で囁かれる。
吐息がかかる距離だ。
振り返ると、眼鏡の奥の青い瞳が、熱っぽい光を宿してわたくしを見つめていた。
「ありがとう、セレス。君とこうして歩くのが、私の夢だった」
「殿下……」
「ルーカスでいい。今はただの男だ」
心臓が早鐘を打つ。
これは反則だ。
視察だと言っていたのに、こんな甘い空気を出されたら勘違いしてしまう。
顔が熱い。
わたくしは誤魔化すように視線を彷徨わせた。
「そ、そういえば! そろそろ日も暮れますし、裏通りを通って帰りましょうか!」
「……照れているのか?」
「ち、違います! ショートカットの提案です!」
早口で捲し立て、わたくしは彼の腕を引いてメインストリートを外れた。
ルーカス様が楽しそうに笑う気配がする。
もう、敵わない。
賑やかな通りを離れ、少し薄暗い路地裏に入る。
人通りは少なく、静かだ。
火照った頬を冷ますには丁度いい。
そう思った、その時だった。
「……うぅ……」
ゴミ箱の陰から、微かな呻き声が聞こえた。
わたくしの足が止まる。
ナースの耳は、苦痛の声を逃さない。
「セレス?」
「誰かいます」
わたくしはルーカス様の手を離し、声のした方へ駆け寄った。
積まれた木箱の裏。
そこに、ボロ布を纏った小さな子供がうずくまっていた。
五歳くらいの男の子だろうか。
「どうしました? どこか痛いのですか?」
膝をつき、声をかける。
子供はガタガタと震えながら、虚ろな目でこちらを見上げた。
顔が赤い。
ひどい高熱だ。
「あつい……くるしい……」
「すぐに楽にしてあげますね」
わたくしは手袋を外し、子供の額に手を当てた。
治癒魔法を発動する。
ただの風邪なら、一瞬で熱が下がるはずだ。
しかし。
(……え?)
違和感があった。
魔力が弾かれるような、奇妙な手応え。
熱の原因を探ろうと体内に意識を向けると、肺のあたりに黒い斑点のような影が見えた。
それはわたくしの魔力を受けても消えず、むしろ抵抗するように蠢いている。
(これは……ただの風邪ではありませんわ)
背筋に冷たいものが走る。
感染症だ。
それも、かなりタチの悪い。
「セレス、どうした? 顔色が悪いぞ」
追いついてきたルーカス様が、心配そうに覗き込んでくる。
わたくしは子供を抱きかかえたまま、彼を見上げた。
「ルーカス様、すぐにこの子を診療所へ。……いえ、隔離できる場所へ運びます」
「隔離?」
「はい。普通の病気ではありません。この街で、何かが起きています」
甘いデートの余韻は、一瞬で吹き飛んだ。
わたくしの腕の中で、子供が苦しげに咳き込む。
その呼気に混じる微かな魔力の残滓が、不吉な予感を告げていた。




