第6話 昨日の敵は、今日の狂信者
チュンチュン、と小鳥のさえずりが聞こえる。
爽やかな朝だ。
わたくしはふかふかのベッドの中で、大きく伸びをした。
『ママ! おはよ! おなかへった!』
……訂正する。
爽やかではない。
目を開けると、目の前で黄金の聖杯が浮遊していた。
昨日、大聖堂から勝手についてきた「精霊の杯」だ。
「おはようございます。……朝から元気ですわね」
『ごはん! ママのまりょく、たべたい!』
聖杯が空の器をカチカチと鳴らして催促してくる。
どうやらこの子は、わたくしの魔力を主食としているらしい。
燃費の悪いペットだ。
「はいはい。少しだけですよ」
わたくしは指先を杯の縁に触れさせ、少量の魔力を流し込んだ。
聖杯がピカッと発光し、嬉しそうに震える。
『おいしー! ママだいすき!』
「はいはい」
適当にあしらいつつ、身支度を整える。
今日は学園への登校日だ。
昨日の今日で気まずいが、休むわけにはいかない。
何より、あのバルト神官長たちに「逃げた」と思われるのは癪だ。
◇
公爵家の馬車に揺られ、学園の正門へ到着する。
窓の外を見て、わたくしは絶句した。
「……何事ですの?」
正門前が、白いローブの集団で埋め尽くされていたのだ。
聖光教会の神官たちだ。
その数、およそ五十人。
彼らは馬車が到着するなり、一斉に整列し、深々と頭を下げた。
「お待ちしておりました! 至高の聖女、セレスティーナ様!」
地響きのような挨拶。
登校中の生徒たちが、遠巻きにドン引きしているのが見える。
わたくしも引きたい。
今すぐ回れ右をして帰りたい。
しかし、馬車のドアが開けられてしまった。
覚悟を決めて降り立つ。
「ごきげんよう。……何の真似ですの?」
わたくしは警戒心を露わにして尋ねた。
すると、集団の中から一人の男が進み出てきた。
バルト神官長だ。
昨日はあんなに傲慢だった彼が、今は揉み手をして卑屈な笑みを浮かべている。
「おお、聖女様! 昨日は大変失礼いたしました! 貴女様の深淵なる御力を理解できず、無礼な口を利いた私をお許しください!」
「はあ」
「これはほんの詫びの品でございます!」
彼が合図をすると、後ろの神官たちが次々と箱を差し出した。
最高級の聖水、希少な薬草、さらには見たこともない宝石の数々。
貢物だ。
完全に機嫌を取りに来ている。
(……怪しいですわ)
わたくしは目を細めた。
人間、そう簡単に変わるものではない。
昨日は「魔女」呼ばわりしていたのに、今日は「至高の聖女」。
この急変ぶり、裏があるとしか思えない。
油断させて教会に連れ込み、今度こそ異端審問にかけるつもりかもしれない。
「結構です。そのような高価なものは受け取れません」
「ご謙遜を! 貴女様こそが、我ら教会が数百年間待ち望んだ『真なる導き手』なのです! さあ、どうぞこちらへ! 教会本部にて、教皇猊下が謁見をお待ちです!」
バルトが一歩踏み出してくる。
その目は血走っており、異様な熱気を帯びていた。
怖い。
昨日の殺意とは違うベクトルで、生理的に無理だ。
「近寄らないでください」
わたくしは後ずさった。
すると、バルトの背後から、さらに別の集団が現れた。
「待て待て待てぇい!」
「セレスティーナ様に気安く触れるな、生臭坊主ども!」
リリア率いる親衛隊だ。
彼女たちは抜身の剣(練習用)を構え、神官たちとわたくしの間に割って入った。
「リリアさん!」
「お守りします! 昨日の今日で手のひら返しとは、厚顔無恥にも程がありますね!」
リリアがバルトを睨みつける。
しかし、バルトも引かない。
「黙れ、平民風情が! 我々は聖女様を『あるべき場所』へお連れしようとしているのだ! 神の愛し子を、このような俗世の学園に置いておくなど冒涜である!」
「はあ? セレス様は学園の宝です! 教会なんぞのカビ臭い場所に閉じ込めてたまるか!」
一触即発。
正門前で、宗教勢力と学園勢力の抗争が始まろうとしている。
わたくしは頭を抱えた。
平和とは。
平穏とは、一体どこの国の言葉だっただろうか。
「……やめなさい」
その時。
空気を凍らせるような、冷徹な声が響いた。
ザッ、と神官たちが道を開ける。
現れたのは、漆黒の制服を纏ったルーカス様だった。
背後には近衛騎士団を従えている。
その表情は氷のように冷たく、青い瞳は絶対零度の怒りを宿していた。
「ル、ルーカス殿下……」
「私の婚約者に、群がるなと言ったはずだが?」
ルーカス様が歩み寄ってくる。
わたくしは迷わず彼の方へ駆け寄り、その背中に隠れた。
ここが一番安全だ。
「殿下、怖いですわ。彼ら、目が笑っていませんの」
「ああ、分かっている。……気色が悪いな」
ルーカス様はわたくしを背に庇い、バルトを見下ろした。
「教会は方針を変えたようだが、やり方が下劣だ。彼女を崇めるフリをして、その力を独占し、政治の道具にするつもりだろう?」
「め、滅相もございません! 我々は純粋に信仰心から……!」
「嘘をつくな」
ピキッ、と足元の石畳が凍りつく。
ルーカス様の魔力が漏れ出している。
「彼女は王家のものだ。そして何より、私のものだ。指一本でも触れてみろ。その教会ごと氷漬けにしてやる」
低い、けれど確かな殺意を含んだ宣言。
バルト神官長は顔を青くし、ガタガタと震え出した。
昨日の試験で、ルーカス様の実力(とセレスへの執着)を嫌というほど見せつけられた彼らに、反論する度胸はない。
「……っ、出直します! ですが、我々は諦めませんぞ! 聖女様は必ず、我らが教会へ……!」
捨て台詞を残し、神官たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
後に残されたのは、大量の貢物と、興奮冷めやらぬ親衛隊たち。
「……ふぅ。助かりました、ルーカス様」
わたくしは彼の背中から顔を出した。
ルーカス様は振り返り、いつもの穏やかな(少し独占欲の強い)顔に戻る。
「無事でよかった。……しかし、厄介だな」
「ええ。嫌がらせの次は、狂信的な勧誘ですか」
「君が魅力的すぎるのが悪い」
彼は苦笑して、わたくしの髪を撫でた。
「だが、安心してくれ。どんな手を使っても、君の平穏は私が守る。……たとえ神が相手でもね」
その言葉は頼もしかったが、同時に少しだけ怖くもあった。
なぜなら、彼の瞳の奥に、バルトたちとは違う種類の――けれど同じくらい重たい「執着」の炎が見えた気がしたからだ。
わたくしの平穏な学園生活は、前途多難である。




