第4話 聖杯の汚れは、わたくしが落とします
大聖堂の祭壇。
わたくしの目の前には、どす黒い靄を纏った黄金の杯が鎮座している。
近くで見ると、その汚れ具合は深刻だった。
表面にこびりついた赤黒い錆。
内側から湧き出るような不快な粘液。
まるで、病に侵された臓器のようだ。
『……たす……けて……』
やはり、聞こえる。
耳ではなく、脳に直接響くような悲痛な訴え。
モノが喋るはずはないが、わたくしのナースとしての本能が告げていた。
これは「治療」が必要な状態だ。
「さあ、どうした」
背後から、バルト神官長の嘲るような声が飛んでくる。
「怖気づいたか? だが、試験は始まっている。その聖杯を浄化するまでは帰さんぞ」
「ええ、分かっておりますわ」
わたくしは手袋を外そうとした。
すると、バルトが鼻で笑う。
「手袋など無意味だ。神聖な儀式なのだから、当然『素手』で行うのが礼儀だろう?」
意地が悪い。
こんな得体の知れないものに素手で触れろと言うのか。
感染症対策の観点からは最悪の指示だ。
カチャリ、と金属音がした。
ルーカス様が剣を抜きかけている。
「……貴様、セレスに何をさせる気だ」
「おや、殿下。聖女ならば神の加護があるはず。素手で触れた程度で怪我などしませんよ……『本物』ならばね」
バルトの挑発に、ルーカス様の殺気が膨れ上がる。
一触即発だ。
わたくしは慌てて振り返り、ルーカス様に微笑んでみせた。
「大丈夫です、殿下。手洗いは後で念入りにしますから」
「セレス、しかし……」
「信じてくださいませ」
彼を制止し、わたくしは再び聖杯に向き直った。
素手でいいなら、好都合かもしれない。
直接触れたほうが、魔力の通りが良いからだ。
わたくしは躊躇なく、その汚れた杯へと手を伸ばした。
「あっ……!」
周囲の神官たちが息を呑む気配がする。
バルトが口元を歪めた。
わたくしが悲鳴を上げて倒れるのを期待しているのだろう。
ペタリ。
指先が、冷たく湿った表面に触れる。
その瞬間。
ジュッ、という嫌な音と共に、指の皮が焼け焦げるような激痛が走った。
(ッ……痛い!)
強力な酸に触れたような感覚。
やはり、ただの汚れではない。
これは呪いだ。
触れた者の生気を奪い、組織を壊死させる悪質なプログラム。
普通なら、ここで手を引っ込めて泣き叫ぶところだ。
だが、わたくしは元ナースで、今は最強の治癒魔法使いだ。
(壊れる端から、治せばいいのです!)
わたくしは痛みを無視して、杯をガシッと両手で掴んだ。
即座に魔力を循環させる。
指先の細胞を高速再生させながら、同時に聖杯の内部へと「診断」の魔力を走らせた。
視える。
黄金の地金に食い込むように、黒い根が張り巡らされている。
これが病巣だ。
長年の怨念や、誰かの悪意が蓄積して、ヘドロのように固着している。
「……ひどい状態ですわね。これでは息もできませんわ」
わたくしは同情を込めて呟いた。
そして、イメージする。
外科手術だ。
この黒い根を、光のメスで一本残らず切除し、正常な組織だけを残す。
「――ヒール」
短く唱える。
わたくしの掌から、眩い白光が奔流となって溢れ出した。
バチバチバチッ!
聖杯が激しく振動する。
黒い靄が断末魔のような音を立てて蒸発していく。
「な、なんだ!?」
「光が……強すぎる!」
神官たちが目を覆って後ずさる。
バルトの狼狽する声が聞こえた。
「馬鹿な! なぜ腕が腐らない!? その聖杯は触れただけで魔力を吸い尽くすはず……!」
やはり、そういう仕掛けだったか。
だが残念。
わたくしの魔力は、吸い尽くせるほど底が浅くはない。
むしろ、押し込んでやる。
「さあ、綺麗になりなさい! こびりついた汚れも、悪い気も、全部まとめて消毒です!」
さらに魔力を注ぎ込む。
光の熱量が上がり、大聖堂全体が真昼のように明るくなった。
聖杯から黒い液体がボタボタと滴り落ち、床の石畳を溶かしていく。
それが最後の膿だった。
パァァァン!
甲高い音が響き、光が弾ける。
わたくしはゆっくりと手を離した。
「……ふぅ。いかがかしら?」
そこに在ったのは、先ほどまでの薄汚れた杯ではなかった。
鏡のように磨き上げられた、純金の聖杯。
一点の曇りもなく、内側からは清らかな水のような魔力が湧き出している。
さらに言えば、以前より一回り大きくなり、装飾の彫刻もくっきりとしている気がする。
「あ、ありえん……」
バルト神官長が、へたりと床に尻餅をついた。
顔面蒼白で、口をパクパクさせている。
「呪いが……消滅しただと? あれは数百年の怨念が籠もった、国宝級の呪物だぞ……?」
「あら、ただの汚れではなかったのですか?」
わたくしはわざとらしく首を傾げた。
ハンカチを取り出し、手を拭く。
指先には傷ひとつ残っていない。
「少し頑固なカビでしたが、綺麗に落ちましたわ。これで合格でよろしいですか?」
にっこりと微笑む。
バルトは言葉が出ないようで、ただ震える指で聖杯を指差した。
その時だ。
ピカーッ!
綺麗になった聖杯が、突然脈打つように発光した。
そして、ふわふわと空中に浮き上がり、わたくしの周りを嬉しそうに回り始めたではないか。
『ありがとう……ママ……!』
頭の中に、幼い子供のような歓喜の声が響く。
わたくしは固まった。
(ママ?)
どうやら、汚れを落としたついでに、何か余計なものまで目覚めさせてしまったらしい。
ルーカス様が呆れたように額を押さえ、神官たちが「奇跡だ……」と祈り始めるのが見えた。
不合格になって平穏を手に入れる計画は、この瞬間、音を立てて崩れ去った。




