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【最終章開始】悪役令嬢ですが、回復魔法しか使えないので平和に生きます!  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第4話 聖杯の汚れは、わたくしが落とします

 大聖堂の祭壇。

 わたくしの目の前には、どす黒い靄を纏った黄金の杯が鎮座している。

 近くで見ると、その汚れ具合は深刻だった。

 表面にこびりついた赤黒い錆。

 内側から湧き出るような不快な粘液。

 まるで、病に侵された臓器のようだ。


『……たす……けて……』


 やはり、聞こえる。

 耳ではなく、脳に直接響くような悲痛な訴え。

 モノが喋るはずはないが、わたくしのナースとしての本能が告げていた。

 これは「治療」が必要な状態だ。


「さあ、どうした」


 背後から、バルト神官長の嘲るような声が飛んでくる。


「怖気づいたか? だが、試験は始まっている。その聖杯を浄化するまでは帰さんぞ」

「ええ、分かっておりますわ」


 わたくしは手袋を外そうとした。

 すると、バルトが鼻で笑う。


「手袋など無意味だ。神聖な儀式なのだから、当然『素手』で行うのが礼儀だろう?」


 意地が悪い。

 こんな得体の知れないものに素手で触れろと言うのか。

 感染症対策の観点からは最悪の指示だ。


 カチャリ、と金属音がした。

 ルーカス様が剣を抜きかけている。


「……貴様、セレスに何をさせる気だ」

「おや、殿下。聖女ならば神の加護があるはず。素手で触れた程度で怪我などしませんよ……『本物』ならばね」


 バルトの挑発に、ルーカス様の殺気が膨れ上がる。

 一触即発だ。

 わたくしは慌てて振り返り、ルーカス様に微笑んでみせた。


「大丈夫です、殿下。手洗いは後で念入りにしますから」

「セレス、しかし……」

「信じてくださいませ」


 彼を制止し、わたくしは再び聖杯に向き直った。

 素手でいいなら、好都合かもしれない。

 直接触れたほうが、魔力の通りが良いからだ。


 わたくしは躊躇なく、その汚れた杯へと手を伸ばした。


「あっ……!」


 周囲の神官たちが息を呑む気配がする。

 バルトが口元を歪めた。

 わたくしが悲鳴を上げて倒れるのを期待しているのだろう。


 ペタリ。

 指先が、冷たく湿った表面に触れる。


 その瞬間。

 ジュッ、という嫌な音と共に、指の皮が焼け焦げるような激痛が走った。


(ッ……痛い!)


 強力な酸に触れたような感覚。

 やはり、ただの汚れではない。

 これは呪いだ。

 触れた者の生気を奪い、組織を壊死させる悪質なプログラム。


 普通なら、ここで手を引っ込めて泣き叫ぶところだ。

 だが、わたくしは元ナースで、今は最強の治癒魔法使いだ。


(壊れる端から、治せばいいのです!)


 わたくしは痛みを無視して、杯をガシッと両手で掴んだ。

 即座に魔力を循環させる。

 指先の細胞を高速再生させながら、同時に聖杯の内部へと「診断」の魔力を走らせた。


 視える。

 黄金の地金に食い込むように、黒い根が張り巡らされている。

 これが病巣だ。

 長年の怨念や、誰かの悪意が蓄積して、ヘドロのように固着している。


「……ひどい状態ですわね。これでは息もできませんわ」


 わたくしは同情を込めて呟いた。

 そして、イメージする。

 外科手術だ。

 この黒い根を、光のメスで一本残らず切除し、正常な組織だけを残す。


「――ヒール」


 短く唱える。

 わたくしの掌から、眩い白光が奔流となって溢れ出した。


 バチバチバチッ!

 聖杯が激しく振動する。

 黒い靄が断末魔のような音を立てて蒸発していく。


「な、なんだ!?」

「光が……強すぎる!」


 神官たちが目を覆って後ずさる。

 バルトの狼狽する声が聞こえた。


「馬鹿な! なぜ腕が腐らない!? その聖杯は触れただけで魔力を吸い尽くすはず……!」


 やはり、そういう仕掛けだったか。

 だが残念。

 わたくしの魔力は、吸い尽くせるほど底が浅くはない。

 むしろ、押し込んでやる。


「さあ、綺麗になりなさい! こびりついた汚れも、悪い気も、全部まとめて消毒です!」


 さらに魔力を注ぎ込む。

 光の熱量が上がり、大聖堂全体が真昼のように明るくなった。

 聖杯から黒い液体がボタボタと滴り落ち、床の石畳を溶かしていく。

 それが最後の膿だった。


 パァァァン!


 甲高い音が響き、光が弾ける。

 わたくしはゆっくりと手を離した。


「……ふぅ。いかがかしら?」


 そこに在ったのは、先ほどまでの薄汚れた杯ではなかった。

 鏡のように磨き上げられた、純金の聖杯。

 一点の曇りもなく、内側からは清らかな水のような魔力が湧き出している。

 さらに言えば、以前より一回り大きくなり、装飾の彫刻もくっきりとしている気がする。


「あ、ありえん……」


 バルト神官長が、へたりと床に尻餅をついた。

 顔面蒼白で、口をパクパクさせている。


「呪いが……消滅しただと? あれは数百年の怨念が籠もった、国宝級の呪物だぞ……?」

「あら、ただの汚れではなかったのですか?」


 わたくしはわざとらしく首を傾げた。

 ハンカチを取り出し、手を拭く。

 指先には傷ひとつ残っていない。


「少し頑固なカビでしたが、綺麗に落ちましたわ。これで合格でよろしいですか?」


 にっこりと微笑む。

 バルトは言葉が出ないようで、ただ震える指で聖杯を指差した。


 その時だ。

 ピカーッ!

 綺麗になった聖杯が、突然脈打つように発光した。

 そして、ふわふわと空中に浮き上がり、わたくしの周りを嬉しそうに回り始めたではないか。


『ありがとう……ママ……!』


 頭の中に、幼い子供のような歓喜の声が響く。

 わたくしは固まった。


(ママ?)


 どうやら、汚れを落としたついでに、何か余計なものまで目覚めさせてしまったらしい。

 ルーカス様が呆れたように額を押さえ、神官たちが「奇跡だ……」と祈り始めるのが見えた。


 不合格になって平穏を手に入れる計画は、この瞬間、音を立てて崩れ去った。

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