第3話 完璧な落第計画
その日の夜。
アルヴァレス公爵邸の応接室は、重苦しい空気に包まれていた。
「絶対に駄目だ」
ソファに座るルーカス様が、低い声で告げる。
目の前のテーブルには、手つかずの紅茶が冷めていた。
彼は眉間に深い皺を寄せ、まるで世界の終わりみたいな顔でわたくしを見つめている。
「教会に関わってはいけない。あそこは……君が思っているような清廉潔白な場所ではないんだ」
「ですが殿下、もう受けると約束してしまいましたわ」
「約束など破ればいい。私が握りつぶす」
物騒な発言だ。
第二王子の権力を使えば可能かもしれないが、それでは火に油を注ぐことになる。
わたくしは困ったように微笑み、彼の隣に座り直した。
「心配しすぎですわ。たかが認定試験ですもの」
「たかが、ではない。奴らは『聖女』という存在を、自分たちの権威付けのための道具としか見ていない。過去に何人の聖女が利用され、心を壊されたか……」
ルーカス様が拳を握りしめる。
その瞳には、怒りと焦燥が滲んでいた。
どうやら彼は、教会の体質をひどく嫌っているらしい。
(本当にお優しい方ですわ)
わたくしは胸が温かくなるのを感じた。
彼はきっと、病み上がりのわたくしが、堅苦しい教会の儀式で疲弊することを案じているのだ。
あるいは、変な言いがかりをつけられて傷つくのを恐れているのかもしれない。
けれど、今回のわたくしには秘策がある。
「ルーカス様。わたくしには考えがあるのです」
「考え?」
「はい。わたくし、その試験にわざと落ちるつもりですの」
小声で打ち明ける。
ルーカス様が目を丸くした。
「落ちる?」
「ええ。あのバルト神官長は言いました。『試験に落ちれば聖女の称号は与えられない』と。つまり、不合格になれば、わたくしはただの公爵令嬢に戻れるのです」
これぞ、完璧な作戦だ。
聖女なんて大層な看板は、平和な生活の邪魔でしかない。
試験で無能なふりをして、盛大に失敗してやればいい。
そうすれば教会も興味を失い、学園の親衛隊たちも熱が冷めるだろう。
「……なるほど。君は最初から、そのつもりで?」
「はい。ですから、この試験はわたくしにとって『聖女辞退』のための手続きなのです。止める理由はありませんわ」
自信満々に胸を張る。
ルーカス様はしばらく呆然としていたが、やがて深いため息をついた。
張り詰めていた肩の力が抜けていく。
「……はは。君には敵わないな」
「ご理解いただけました?」
「ああ。だが、危険な真似はさせられない。条件がある」
彼はわたくしの手を取り、真剣な眼差しを向けた。
「当日は私も立ち会う。騎士団も連れて行く。もし奴らが妙な真似をしたら、その場で試験を中止させて君を連れ帰る。……いいな?」
「ふふ、過保護ですわね」
「君に関しては、心配しすぎるということはない」
ルーカス様が、わたくしの指先に口づけを落とす。
その熱に、少しだけ心臓が跳ねた。
最近、彼のスキンシップが自然すぎて困る。
患者とナースの距離感じゃないことは分かっているけれど、嫌ではないのが自分でも不思議だ。
「分かりました。では、当日は護衛をお願いいたしますわ」
こうして、わたくしたちの利害は一致した。
目指すは「不合格」。
平和な未来を取り戻すための、負けられない戦い(負けるつもりだが)が始まる。
◇
そして一週間後。
決戦の日がやってきた。
王都の中央にそびえる大聖堂。
その巨大な扉の前には、約束通りルーカス様率いる近衛騎士団が整列していた。
物々しい雰囲気だ。
これなら教会側も下手なことはできないだろう。
「行くぞ、セレス」
「はい」
エスコートを受け、大聖堂の中へと進む。
高い天井。
色とりどりのステンドグラス。
パイプオルガンの重低音が響く中、最奥の祭壇にはバルト神官長たちが待ち構えていた。
しかし。
わたくしの視線は、彼らではなく、その手前にある「モノ」に釘付けになった。
「……あれは?」
祭壇の中央。
台座の上に、ひとつの杯が置かれている。
黄金で作られているようだが、表面はどす黒い錆のような汚れに覆われていた。
いや、汚れではない。
そこから立ち昇る紫色の煙が、生き物のように蠢いている。
(なんですか、あの禍々しいオーラは)
見ているだけで肌が粟立つような不快感。
第2話でリリアさんに見えた「黒い靄」の比ではない。
明らかに、触れてはいけない危険物だ。
「よく来たな、魔女候補」
バルト神官長が、歪んだ笑みを浮かべてこちらを見下ろした。
「これが試験だ。この『聖杯』を浄化してみせろ」
聖杯。
名前負けもいいところだ。
どう見ても呪いのアイテムにしか見えない。
隣でルーカス様が剣の柄に手をかけたのが気配で分かった。
空気が凍りつく。
「……バルト。これはどういうつもりだ」
「おや、殿下。聖女ならば、これくらいの穢れは払えて当然でしょう? それとも、やはり偽物だと認めて逃げ帰りますか?」
挑発的な言葉。
なるほど、そういうことか。
わたくしは納得した。
(絶対に失敗させるために、こんな無理難題を用意したのですわね)
普通の治癒魔法使いなら、触れた瞬間に呪われて終わりだろう。
意地が悪い。
けれど、わたくしにとっては好都合だ。
「できません」と言って降参すれば、それで不合格決定だ。
なんて簡単な試験だろう。
「セレス、帰ろう。これは罠だ」
ルーカス様がわたくしの肩を抱き、踵を返そうとする。
だが。
「――あら?」
わたくしは足を止めた。
もう一度、あの汚れた杯を凝視する。
蠢く紫の煙。
その奥から、微かに聞こえるような気がしたのだ。
『……いたい……くるしい……』
悲鳴のような、泣き声のような。
モノの声など聞こえるはずがない。
けれど、わたくしの「ナースの直感」が告げていた。
あれは、助けを求めている。
「……セレス?」
「申し訳ありません、殿下。少しだけ、見てみますわ」
わたくしはルーカス様の手をそっと解き、祭壇へと歩み出した。
バルト神官長が「かかった」と言わんばかりに口角を上げるのが見えた。
いいでしょう。
不合格になるつもりだったけれど、目の前に苦しんでいる患者(?)がいるなら話は別だ。
聖女の称号はいらないけれど、この気持ち悪い汚れだけは、綺麗さっぱり洗い流して差し上げますわ。




