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悪辣宰相の過去


初めて会ったとき、その子供は粗末な服を着て粗末な椅子に座り、空虚な威光を振りかざしていた。


15番目の王女。王に最も忌み嫌われた子供。

彼女が生まれたとき、一縷の望みを賭けていた王は、またも姫君であることに激怒したという。なぜ王子でないのかと怒り狂い、母親ともども切り殺そうとした。

出産に立ち会っていた医官の命懸けの請願により、かろうじて命だけは許されたものの、妾妃の宮からは叩きだされ、王宮の隅にある粗末な小屋で、下女よりも貧しい暮らしを強いられた。


─── よく生き延びたものだ。母子そろって、獣並みに生命力が強いのだな。


王女の経歴を調べたとき、真っ先に出てきた感想がそれだった。

医官はヒューデリア王国一の名医と誉れ高く、病弱な王子の主治医でもある男だ。出産に際して、危険がないようにと、そのときはまだ新たな王子の誕生を期待していた王が、立ち合いを命じたのだ。

王が医官を殺せず、その請願を聞き入れたことに不思議はない。

しかし、赤子を生んだその日に、妾妃から罪人のごとき立場へ落とされた娘と、その子供は、よく生き延びたものだと思った。妾妃になる前は、貧乏貴族だったという過去が、ここにきて幸いしたのだろうが。



「……殿下が私の経歴をお知りになった暁には、二度と同じ言葉は口にされませんでしょう」


臣下にと望まれて、そう返したのは、わずかな憐れみがあったからかもしれない。

しかし「そなたがほしい」といわれて、途端に興が冷めた。

憐れみも霧散し、失笑が胸を占めた。

玩具をねだる子供のような物言いだ。相手が人間でも、捕虜にした軍師なら、望めば手に入ると思っているのだろうか。

あるいは、誰かにいわれたのか? これは王女たるあなたの戦利品です、とでも? だとすればその誰かは、腹の底では四度目の裏切りを期待しているのだ。自分に王女を始末してほしいにちがいない。


「これはまた、熱烈なお言葉だ……。不肖な我が身といえど、そこまで請われては、心が動くというもの。その賭け、お受けいたしましょう」


嘘はまるで、詩を吟じるかのように、滑らかに口から出た。

王女は、下手な役者のような、まったく身についていない仰々しさで頷いた。


「では、そなたは今このときをもってわが軍師だ。期待しているぞ、アイギス・ラシェド。主を三度裏切ったというそなたが、四度目の裏切りを決めるまでは、わたしのために勝利を描いてもらおう」


呆気にとられたのは、彼女が、自分の悪名を知っていたからではない。

知っていてなお軍師に迎えるといい放った彼女が、心の底から嬉しそうに、瞳を輝かせたからだ。

一点の迷いも、疑いもない、夏の空よりも晴れやかな瞳で。





深夜の回廊に、己の靴音のみが響く。

舞踏会の客人たちはとうに立ち去り、王宮は静けさを保っている。

月のおぼろな夜だった。星明りも頼りなく、夜闇は深い霧のように地上を覆っている。


人間は誰しも暗闇を恐れるのだという。視界がきかない重い闇の中では、恐怖と焦燥に駆り立てられ、身体がこわばり呼吸すら苦しくなるのだと。

だが、ラシェドは、闇を恐れたことはない。

この世界に生まれ落ちたときより、暗闇こそが己の領域だった。漆黒の闇は心地よく、一条の光は疎ましかった。……そういう“生き物”だった。


自分はなにかが欠けているのだろうと、昔からわかっていた。

天賦の才と引き換えにされたかのように、欠落したなにか。


未来が見えているかのように推測を語る幼子を、神官は悪魔の子だと断じた。

信仰心の厚い両親は、我が子を悪魔だと恐れて地下牢に閉じ込めた。

だからラシェドは、一日に一度食事を運びに来ていた使用人を、言葉巧みにそそのかした。

その使用人にはギャンブルで作った借金があり、ラシェドの家には家宝の宝石があった。売れば十分な金になる。借金を返して、新たな人生を掴めるほどの。

使用人は彼のシナリオ通りに動き、彼が初めて作った舞台は、彼自身の自由と、燃え落ちる屋敷を最後に、幕引きを迎えた。


夜を切り裂く炎を、遠くに眺めながら、ラシェドは奇妙な敗北感を覚えていた。


自分が悪魔ではないことは、自分が一番よく知っている。

たしかに、人並外れた頭脳はある。この幼さに不釣り合いなほどに、他人の暗部を見抜き、言葉巧みに操ることもできる。だが、それだけだ。

殴られると腫れあがり、切り付けられると血が噴き出る。脆弱なただの人間だ。

もし自分が悪魔だったなら、地下牢などたやすく破壊して、とうに自由を手にしていただろう。

人の手で監禁できるということ自体、悪魔ではないという証明に等しい。

そんなこともわからないのか、と。愚かなものたちだ、と。

そう思っていた。


だけど ─── 人であるならばこんなとき、激情が胸をかきむしるものではないのだろうか。


両親への憎しみでも、怒りでも、嘆きでも、悲しみでも、あるいは報復の喜びでもいい。

何かしらの、激しい感情が、胸に満ちるものではないのか。


(私は、最初から最後まで、彼らに何も感じなかった)


血を分けた親であるというのに。

地下牢に監禁されるだろうと読めたときも、それが現実となったときも。自分が脱出するための駒を動かし、幕引きを迎えた今も。

胸の内にあるのは、障害物を取り除いたという感覚と、自分のシナリオ通り、つつがなく終えたことへの満足感だけだ。


(この心の在り方は、まさに悪魔そのものではないのか)


神官が断じたとおり、両親が恐れたとおりに。

そう考えてしまってから、いいやと、首を振る。


(私は人間だ)


けれど、いくら自分にいい聞かせてみても、心に落ちた一滴の疑念は、薄まることはなかった。





セレンティアと出会った頃、ラシェドは、若くして、生きることに倦んでいた。

王女の軍師となったのは、どうでもいいという投げやりな気分が、最大の理由だったと思う。

勝とうと、負けようと。生きようと、死のうと。どうでもいい。


かつては、この世のあらゆる書物を読みふけりたいと願っていた。

かつては、未だ誰も解けぬ難問を解き明かしたいと望んでいた。

かつては、自分の策をすべて現実のものとしたいと考えていた。


夢があり、野望があった。目的を果たすためなら何でもした。どんな手段でも使った。

……そして、そのたびに、敗北感は静かに忍び寄ってきた。


まるで自家中毒を起こしているようだった。呪われているような気もしたし、そんな非現実的なことを考える自分が、ひどく馬鹿げてもいた。


お前は悪魔だと、光の中で神官がいう。両親がいう。

暗闇の中で、ラシェドは、いいやと否定する。私はただの人間だ。ろくな食事を与えられなければたやすく衰弱する人間だ。


だが、と、ラシェドは冷静に考える。

─── 人間は、人間を裏切って、破滅させて、何も感じないものだろうか?




疲れていた。うんざりしていた。嫌気がさしていた。

だから王女に献策を命じられたとき、ラシェドは、彼女にとって最も危険なやり方を提案した。

勝率は確かに高い。それは嘘ではない。王女が真実勝利を求めるなら、この策を採ることが最適解だ。

恐らく、王女は、採らざるを得ない。

いくら他の者たちが、ラシェドを信用できないという理由で反対しようとも、彼らとてわかっている。これが最善だと。ここで王女がラシェドの策を退けたなら、どれほど上辺を取り繕おうと、我が身可愛さに逃げたのだと誰もが思う。王女はただでさえ足りていない信頼すら損ねる。

だから王女は、彼女が聡明であればあるほど、逃げられない。

そして、お姫様は自分を恨むだろう。二度とラシェドに献策を求めることはあるまい。


けれどセレンティアは、囮役としてさんざん敵に追われ、矢を射られ、切り結び、命からがら逃げて、また追われて、そうして最後に自軍まで戻ってくると、爽やかにいった。


「さすがだ、ラシェド! そなたの読みはことごとく当たった。我が軍の勝利だ。褒美を取らせよう。次も期待しているぞ!」


─── この王女は、もしかして頭が弱いのではないか。

ラシェドは、わりと真剣にそう思った。




セレンティアは言葉を違えず、次も、その次も、ラシェドに策を求めた。

ラシェドは、次も、その次も、王女を囮役に指名した。

それは実験に近かった。セレンティアという数式は、ラシェドには理解できないものだった。なぜその計算式でその解が導き出されるのかわからない。謎に満ちている。


しかし、何度実験をしても不可解な結果が出るため、あるとき、ついぽろりと、


「私が悪魔であるなら、殿下は怪物なのではないでしょうか。それなら、解が狂っているのも納得がいきます」


と零したところ、激怒したオリオールに決闘を申し込まれたこともあった。


これだから騎士という連中は血の気が多くて困る。

もしオリオールと決闘したら、自分など瞬殺である。どう見ても自分のほうが弱い。誰の目にも明らかな事実だというのに、それを承知で決闘を申し込むとは、騎士とは思えぬ卑劣な行為。

……等々を述べていたら、オリオールの殺意が息苦しいほどに膨らんだ。


王女が制止しなければ、オリオールは剣を抜いていただろう。

そもそもあの男は、セレンティアを囮に使う策に、常に反対していた。忠誠心の厚い男だから、最後には必ず王女の決断を支持していたが、こちらを見る眼には苦々しい色が浮かんでいた。


オリオールは、王女の一の騎士と呼べる存在だった。

セレンティアも、オリオールを慕い、頼りにしていた。

彼女が、屈託のない笑顔を見せるとき、傍らにはオリオールの姿があった。彼女が騎士へ向ける絶大な信頼は、こんこんとあふれ出る泉のようだった。

ラシェドにとっても、それは不思議なことではなかった。何一つ謎はなかった。

不遇の王女と忠誠心の厚い騎士だ。おとぎ話にでも出てきそうなありふれた組み合わせだろう。

しかし ─── セレンティアが、その信頼の瞳をそのまま自分へ向けたときだけは、別だった。

不快感と心地よさが入り混じった、奇妙な感覚があった。胸がざわついた。


自分を見つめるセレンティアの、その瞳が曇らないことが、ラシェドには理解できなかった。





実験を繰り返し、結果の推移を見守る。

それだけのつもりだった。

けれど、帰還したセレンティアの腕が、真っ赤に染まっているのを見た瞬間、息が止まった。

何も考えられなかった。策も計算も頭から吹っ飛んだ。

ただ、セレンティアのもとへ駆けつけ、止血をしないと、と、思った。


─── 血を止めなくては。すぐに手当てをしなくては。あぁ、医務官は何をしている!? どうしてこれほどに来るのが遅い!


背筋を駆け抜けるのは、生まれて初めて味わう感情だった。

心臓がきしんで、呼吸が浅くなった。ぜいぜいと息をした。全身がこわばって、身体がうまく動かない。思考が空回り、計算式が歪んでいく。


(ああ ─── 、これが、恐怖か)


傷口を無理やり布で抑えつける。セレンティアが短い悲鳴を上げ、ラシェドの手を振りほどこうとした。痛い、と、逃げる身体を、力づくで抑え込んだ。

ヘイゼルの瞳に涙が滲もうとも、彼女が生きていることがすべてだった。


医務官が駆けつけて、手を放しなさいと叱責された。

「どきなさい。邪魔です」

あなたが手を離さなければ、治療することもできない。そう叱り飛ばされて、初めて、自分が障害物になっていることに気づいた。

セレンティアの血で赤く染まった指は、凍り付いたように、彼女の腕にへばりついていた。


「大丈夫だから、落ち着いて」


役立たずになった軍師に、セレンティアはなだめるようにそういった。

その瞳を見て、ラシェドは人生で初めて泣きたくなった。

セレンティアが深手を負ったのはラシェドのせいだった。ほかにも策はあったのに、彼女を囮役にすることに固執したせいだった。誰よりも自分がそれをわかっていた。

謎を解き明かしたいという、自分の愚かな欲求を優先した。彼女の身の安全を何一つ考えなかった。最も勝利に近い策だとうそぶいた。初めから嘘ばかりだった。


けれど、それでもなお、セレンティアの瞳に疑いはない。

ここにきてもまだ、責める色すら浮かんでいない。


美しいヘイゼルの瞳は、ラシェドを信じている。愚かしいほどに、救いがたいほどに、ラシェドに全幅の信頼を置いている。

セレンティアは、忌まわしいほどに光に満ちていた。

この世のなによりも得難く、美しい光だ。

闇の中にすらその身一つで飛び込んでくる、至高の輝きだ。


ラシェドの闇の中に、美しい魂が訪れて、そして微笑んだ。


計算が壊れる。数式がほどける。シナリオが焼け落ちて、舞台は音を立てて沈んでいく。


─── 最後に残ったものは、たった一つ、平凡でありふれた想いだった。




……医務官の処置が終わり、命に別状はないと聞かされて、ようやく息ができた気がした。

それから、自分の愚かしさに笑えてきた。なにが実験だ。さんざん回り道をして、たどり着く答えがこれとは! 悪魔も腹を抱えて笑うことだろう。なんて馬鹿馬鹿しい。

今になって気づくのか。

セレンティアを愛している、だなんて。


……自覚すると同時に、苦さが広がる。

叶うことはないと、わかっていた。


いずれ彼女が選ぶのは自分ではない。

戦神とも称えられる、光の騎士オリオール。

セレンティアが最も愛し、頼りにする男。

あの騎士ほど王女にふさわしい存在はなく、あの騎士ほど排除できない人間もいない。


(まあ、殺せないことはないんですけどね)


策謀をもって始末することはできる、できるが……。

オリオールを失えば、セレンティアは泣くだろう。

彼女の涙は見たくない。


……それは、人生で初めて味わう、甘く苦く、狂おしい感情だった。




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