失恋女王
オリオールが「夜も遅いですから」と部屋を出て行き、ラシェドもそれに続こうとする。
わたしは、思わず、その背中に声をかけていた。
「ラシェド、次はしなくていいから」
ラシェドがくるりと振り向いて、不思議そうに首を傾げてみせる。
いったい何の話をしているのかわからない、と、いわんばかりに。
だけど、その瞳の奥には、揺るがない冷徹さが見える。
それは計算と策略だ。彼は躊躇せず、気負いもなく、息をするようにたやすく他人を陥れる。まるで盤上の駒を動かすような気軽さで、獲物を破滅へ導いていく。
わたしは知っている。
ラシェドはわたしを大切に思っている。
それは決して恋ではなく、ただ一人へ向ける特別な感情でもない。友人や、仲間へ向けるような親しみだ。ともに戦場を生き延びてきたからこそ培われた絆だ。オリオールやマリーへ向ける気持ちと、何も変わらないだろう。
そうして、その親愛でもって、ラシェドはわたしを裏切る人間を破滅させる。
「あなたがわたしを案じてくれるのは嬉しいよ。だけど、次はやらなくていい。たとえ次の婚約者にまた、秘密の恋人がいたとしてもね。見守っていてほしい」
「我が君が自ら制裁を下すと? それはお勧めできませんね。陛下は策を弄することがへた……、いえ、不得手でいらっしゃいますから」
「わざわざいい直す必要あった!? ……こほん。とにかく、いいの。一国の女王としてはですね、夫が愛人の一人や二人囲っていようとも、我慢しようかなーと思っているんですよ」
「なんと、そのような被虐趣味をお持ちでしたとは……。察することができず申し訳ございません」
「お持ちじゃないわ! 女王として、といってるでしょ!? これでも、女王になってしまったからには、幸せな結婚なんて夢のまた夢だと、わかってはいるから……!」
わたしは声を絞り出したのに、ラシェドは、ハッと、鼻で笑った。
「却下です」
「なんでよ」
「悲劇の主人公など、炙り肉を大口で食する我が君には、到底似合いませんので」
「わたしの話聞いてた? わたしはこれでも女王としていっているんだよ、宰相?」
「現宰相に不満があるのなら、その首を挿げ替えてしまえばよろしい。陛下のお言葉一つで叶いましょう。……ですが、できませんでしょう? 我が君には、まだ、私の力が必要だ」
にやり、という擬音が聞こえてきそうな笑みだった。
この男はどうしてこんなに、悪人顔が似合うんだろう。
「私なくしては、政権を、ひいてはこの国を、我が君の望む形で守ることはできない。……ええ、かつておっしゃいましたね、セレンティア殿下。“皆で生き延びたい”と。『そのために、王や王子を殺すことになろうとも、わたしはわたしの民を守る』と」
ラシェドは、わたしの傍へ戻ってくると、まるで忠誠を誓う騎士のように片膝をついた。
それから、恭しくわたしの手を取っていう。
「ですから、私も申し上げました。『貴女に勝利を捧げましょう。千の朝を踏み潰し、万の夜を燃やし尽くしてでも。我が君にふさわしきは、勝利の祝杯のみ』と。……お忘れですか、我が栄光の女王陛下? 貴女の勝利は私が描いて差し上げる。セレンティア陛下に諦めなど不要ですよ」
ラシェドは、そう微笑んで、わたしの手の甲に、口づけを落とした。
ほんの一瞬かすめただけで、温もりを感じる間もなく、すぐに離れていってしまったけれど。
わたしは、心臓が跳ねるのも、頬が熱くなるのも、必死で抑えようとした。
するとラシェドは、さっさと立ち上がり、優しい微笑みのまま、さらりといった。
「それに、我慢して取り繕ったところで、どうせすぐにボロが出るのですから、我が君に妥協の結婚など無理でしょう」
「頑張ろうとしているのに!? 宰相がやる気をそごうとするのおかしくない?」
「馬鹿げた方向への努力はおやめください。面倒が増えるだけです。我が君はいつも通り、幸せを掴もうとなさればよろしい。……貴女には、愛する男との幸せな結婚こそがふさわしいのですから」
とても優しい言葉だった。
温かくて、愛情深くて、わたしへの心配りが感じられた。
それなのに、わたしの胸が、射られたように痛むのは、ラシェドだからだ。
─── この人の中では、わたしに告白されたことなんて、もうすっかり過去の話なんだ……。
だから”愛する男との幸せな結婚”なんて、明らかに他人を想定したいい方ができるのだろう。
わたしはまだ、好きなのに。忘れようとしてもできなくて、未練がましく想い続けてしまっているのに。
わたしは、悔しさすら覚えていて、腹立ちまぎれにいってしまった。
「そういうラシェドはどうなの? ラシェドだって縁談がたくさん来ているのでしょう?」
「はあ、さようでございますね」
「やる気が微塵も感じられないね……!?」
「そうおっしゃられましても……」
困りましたねえというラシェドは、やっぱり完全に他人事の様子だ。
そういえば、ラシェドの好みというのは聞いたことがなかった。
わたしは事前に情報収集もせずに、ただ「あなたが好き」といって玉砕したのだ。
だってあのときは、それどころじゃなかったから……! 大軍との戦いを前に、今度こそ死ぬかもしれないと思っていたのだ。明日には死ぬのなら、せめてこの気持ちだけでも伝えておきたいと、死ぬときに後悔したくないと、そう思って、勇気を振り絞って……、振られたのだ。
だけど、いまなら、事前の調査は可能だ。
「ねえ、ラシェド」
「陛下……、恋話をしたがる若い娘のような露骨な眼で見ないでいただきたいのですが」
「だって恋話をしたがる若い娘だからね! ラシェドはどういう人がタイプ? 年下がいいとか、年上がいいとか、おしとやかな人がいいとか、活発な人が好みだとか、いろいろあるでしょう?」
「そうですねえ……。あえていうならば、年下で」
「うんうん」
「明るい栗色の髪を、有事が起これば邪魔になるからと、肩にかかるほどの長さで切らせては女官たちを泣かせて」
「うんうん……?」
「濃いヘイゼルの瞳に、活力だけはみなぎらせて」
「うん……!?」
「至高の玉座に座り、有能な臣下を多く持ちながらも、恋愛相手を見定める眼だけはお持ちにならない、そのような女性が愉快……、いえ、魅力的に感じますね」
「よーしやっぱり殴らせなさい。いま花瓶持ってくるから」
この男は悪魔かもしれない。
わたしはわりと本気でそう思った。
だって普通、自分が振った相手に対して、いくら冗談でもそういうことをいう? ひどすぎない!? はやくこんな男嫌いになりたい……!
わたしが胸の内でラシェドを呪っていると、彼は不意に、瞳の奥に冷ややかさをのぞかせた。
「幸せな結婚を夢見ていらっしゃる我が君に申し上げるのは心苦しいのですが……、私にとって、結婚とはすなわち地獄なのですよ」
わたしは言葉を失った。
ラシェドが珍しく、本心から激しい拒絶を示しているとわかったからだ。
なにか、嫌な思い出があるのかもしれない。軽い気持ちで聞いてはいけなかったのだろう。
わたしが謝ろうと口を開いた途端、ラシェドが眼だけでそれを制した。
彼は、いつも通りの胡散臭い微笑を取り戻して、軽い口調でいった。
「結婚は人生の墓場と、昔からいいますでしょう?」
「……つまり、あなたは、独身主義ってことだね?」
ラシェドがにっこりと笑った。
「恋や愛というものは、私には不要なのですよ、我が君」
─── あぁ、わたしもたいがい酷い女だ。
あなたが誰も選ばないということを、心の奥底では喜んでしまっている。
いつかあなたが、まだ見ぬ美しい人の手を取る姿を見たくない。
わたしの手を取らなかったあなたが、誰の手も取らなければいいと願っている。
わたしは、最低だ。




