元敵の軍師
ラシェドは敵の軍師だった。
そして置き去りにされた人間だった。彼が仕えていた将は、彼を含めた兵たちを見捨てて逃げた。
オリオールが彼の喉元に剣先を突きつけたとき、彼はいっそ優雅に微笑んだという。
わたしは、初めてラシェドの瞳を見つめたとき、ひどく驚いた。
これほど暗い諦めが、この世にあるのかと思った。
胸をかきむしるほどの嘆きでも、頭がおかしくなるほどの苦痛でもなかった。そこにあったのは、ただただ暗く深い闇だった。まるで夜の果てのような諦念だった。
いったい何がその手に戻れば、彼が満たされるのか、おそらく誰にもわからないだろう。もしかしたら、ラシェド自身にすら、わからないのかもしれない。
根拠なんて何もなかったくせに、なんとなく、そう思ってしまった。
ラシェドは、美しく、それでいて酷薄な笑みを浮かべることだけは得意な男だったから、彼が初めてわたしを囮に使うといい出したときは、それはもう会議が紛糾した。
信用ならないと、誰もがいった。
しかしわたしは、最後には王家の威光を振りかざして、ラシェドの策を強行した。
わたしはラシェドを信じていた。そもそも、信じないならば彼を配下に迎えた意味がなかった。
敵の軍師だった男を迎え入れたのは、彼が必要だったからだ。
生き延びるために。わたしが、騎士団が、国境沿いの民が、領主たちが、敵国からも背後の王家からも殺されないために、どうしても優秀な軍師が必要だった。
ラシェドたちを置き去りにした将軍は、軍師の忠告を聞かなかった。その献策を丸ごと受け入れることもしなかった。自分のほうが戦場をわかっているつもりで、ラシェドを中途半端に利用しようとした。だから、オリオールが追い詰めることができた。
わたしは、ラシェドを信じると決めて、彼を臣下に求めたのだ。
たとえ、わたしに囮になれという策であっても、全身全霊で信じる。一片の疑いも挟まない。
……そうして、わたしたちは、生き延びた。
やがて敵勢を退け、返す刃で首都を駆け登るに至った。
最後には、即位したばかりの異母兄を滅ぼすことになっても、わたしは、わたしの騎士団とわたしの民を守ることを選んで、いま、わたしはここにいる。
だから、そう、囮役を務めたことについては、わたしに何の不満もない。
ラシェドの判断は正しいと、今も昔も思っている。
それに、囮になったのは、最初の頃の何回かだけで、途中からは外された。
ラシェドは「同じ手が延々と通じるはずがありませんのでね」といっていたし、それはその通りなんだけど、わたしが負傷したことも、理由の一つにはなっていたんじゃないかと思う。
だって、腕からだらだら血を流しているわたしを見たときのラシェドといったら、めったにないほど動揺していたのだ。
いつもは憎たらしいほどに余裕のある男が、手から資料の束を滑り落として、血の気の引いた顔で駆け寄ってきた。
そしてすぐさま怒鳴るように医務官を呼んで、傷口を布で無理やり抑えつけた。痛いと嫌がっても聞く耳を持たなかった。
医務官が手当てをしている最中も、傍を離れようとしなかった。
しまいには、酷く低い声で、
「治るのか? 必要なら私が傷を焼く。殿下を抑えつけもしよう。何をしようと構わない。あらゆる罪を犯していい。殿下の命を守れるのなら、この腕を切り落とそうと私が許す。だが、どんな手を使ってもこの方を救え。それができないのならばお前はここで死ぬ。この国すべてが灰と化すと思え」
なんて、とても正気とは思えないことをいい出した。
悪辣非道な軍師のはずなのに、たかが怪我一つで動揺しすぎだろう。
わたしが思わず「大丈夫だから、落ち着いて」となだめると、ラシェドは「喋らないでください。この先一言も口にするな。怪我にさわる」と凍り付いた瞳で吐き捨てた。
わたしは、傷なんかよりも、日頃の冷静さをかなぐり捨てているラシェドのほうが怖くて、半泣きになったけれど、当時医務官だったアメリアが「役に立たない殿方は天幕から出てお行きなさい!」と叱り飛ばして追い払ってくれた。
わたしの腕が今も無事にくっついているのは、アメリアのおかげである。
おそらく、あのとき、ラシェドは悟ったんだろう。
王女を喪えばこの軍は崩壊する。それは自分にとっても望ましくないことだ ─── と。
腕を焼かれるか切り落とされるかしそうになるという、大変な恐怖体験だったけれど、ラシェドがようやくわたしたちを受け入れてくれたのだと、わたしたちを大事に想ってくれているのだとわかったことは、とても嬉しかった。
その日以来、わたしが囮になることはなくなった。
まあ、とはいえ ─── 、当時を知っている人間からすれば、また囮にしているのかと考えるのは無理もないだろう。
わたしだって、ラシェドがわたしを裏切らないとは思っているけれど、利用しないとは思っていない。その点における信頼は皆無だ。だって、わたしが利用されても構わないと思っているのだから、宰相としては、使えるものは何でも使うだろう。
オリオールも、同じことを考えたらしい。苦々しい口調でいった。
「実際のところ、どうなのです、ラシェド」
「おやおや、聡明なオリオール卿とも思えない問いかけですね。私が、我が君が次々と起こす破談事件を裏で操っていると? そのような真似、不可能に決まっているではありませんか」
「あなたならやりかねないと思いますが」
「これは買いかぶられたものですね。いかに私といえども、陛下の“男を見る眼のなさ”を操ることなどできませんよ。我が君の結婚相手を、私が左右できるものでしたら、あのような頭が花畑な連中ばかり選ぶことは、ねえ……? あまりに難しいでしょうね」
「そのあからさまな嘲笑は、わたしへの不敬罪とみなしていい気がしない、ラシェド?」
これは失礼いたしました、と、ラシェドがまったく悪いと思っていない顔で謝った。
いっておくけどね。
わたしに男を見る眼がないというなら、その筆頭はあなただからね!
そう、突きつけてやりたいのを、ぐっと我慢する。
すでに数年前に振られた身なのだ。
いつまでも諦めきれず、あなたを見るたびに心が弾んでしまう。今でもあなたが好きで好きでたまらないのだと、そんなことをいわれたら、いくら悪辣な宰相だって困るだろう。
……あぁ、本当に、早く、新しい恋ができたらいいのに。




