8.悪辣宰相の唯一(完)
お忍びの女王陛下を、無事に王宮内にある私室まで送り届けた後、ラシェドは宰相の執務室へ戻っていた。
夜も更けている。直属の部下たちの姿もない。残って仕事をしていた者も、先ほど全員帰宅させた。
静寂が満ちる室内で、かすかなため息をつく。
苛立ちを押し殺すように、腰を下ろし、荒い手つきで、机の上のランプにだけ火を入れる。そのまま、提出されていた書類を読み始めると、音もなく、室内にあるすべてのランプに火が入った。
億劫な気分で顔を上げれば、暗殺者が微笑んでいる。
「面倒くさがるのはよくないよ、宰相殿。眼を悪くしてしまう」
「あなたの任務は終了したはずですが? 早く帰って、馴染みの娼婦のもとへでも行って差し上げたらいかかですか」
「そうしたいのは山々なんだけれど、姫から頼まれていてね」
無言で続きを促せば、カイは困ったように笑っていった。
「宰相殿が仕事のしすぎで身体を壊さないか心配だから、今夜も執務室へ戻るようだったら止めてほしいって。それから、宰相殿の護衛もね」
「戻った後にいうのでは遅いでしょう」
「仕方ないだろう。力づくは駄目だと姫にいわれているからね。宰相殿を口で説得するのは難しいよといったら、そのときは護衛だけでいいと、姫に諦め顔でいわれてね」
「おお、我が君はなんとお優しい。そのお気持ちだけ、ありがたく頂いておきましょう」
「だから、さっさと帰れって? まぁ、俺もね。宰相殿と茶飲み話に興じたいとは思わないし、久しぶりの休暇を満喫したいのは山々なんだよ。だけど、一つだけ、確認しておきたくてね」
カイの闇色の瞳は軽やかで、口調もまた丁寧だ。
しかし、この男が、この軽やかさのまま、標的の首をへし折る男だと、ラシェドは知っている。
この男が“災厄の黒羽根”と恐れられたのは、その軽さゆえだ。憎悪も憤怒も、その身の内に煮えたぎって、溢れんばかりのくせに、外側だけは、まるで羽根が生えているかのように軽い。
ラシェドは、ふと思いついて、あごに手を当てると、カイへ尋ねた。
「もしかして……、私はこれから、あなたに殺されるんでしょうか?」
「茶化すのはやめてくれないかなぁ、宰相殿」
「いえ、わりと本気で考えたのですが。護衛もついていませんし、あなたがその気になれば、私の首を獲るのはたやすいでしょう」
「そりゃあね、俺がその気になったら、護衛に騎士を何人つけようと、たやすく宰相殿を殺しますよ」
「ほう、騎士を何人つけようとも? オリオールに敗北を喫した者の台詞とは思えませんね」
「旦那は例外。というか旦那は、騎士という括りに入れていいのか? あの人の強さは人間離れしている気がするんだが……、いやいや、人柄でいうなら、まさに騎士様なんだけどね」
「おや、気が合いますね、カイ。私も、オリオールこそ化け物ではないかと、常日頃から思っておりました」
「宰相殿と気が合っても嬉しくないし、俺は旦那を化け物だなんて思ってないから、一緒にしないでほしい。……と、そうじゃなくてね。俺が宰相殿を殺すはずがないでしょう。俺は姫の忠実な配下だよ」
「ええ。ですが ─── 、エスティア妃から依頼があれば、話は別でしょう?」
獲物の首に糸を巻き付けるように、その名を出せば、漆黒の眼差しがすうっと細められた。
空気が重くなったかのような錯覚を覚えるが、しばし睨み合った末に、眼をそらしたのは、カイのほうだった。
はあと、暗殺者がため息をつき、それと共に重圧も消える。
「確かに、エスティア様から頼まれ事はしたよ。……あぁ、本当にうっとおしいな、宰相殿は。どこに糸を張り巡らせているんだか。だけど、その賢い頭でよく考えてほしいものだね。エスティア様が俺に暗殺など頼むはずがないだろう。あの方はただ、姫の将来を案じられているんだよ」
「どこぞの舞台のように、外道な宰相が、心優しい女王陛下に、ろくでなしの夫を迎えさせようとしているのではないかと?」
「政略結婚が王族の常とはいえ、姫にこれ以上つらい思いをさせたくない、幸せになってほしい、という至極真っ当な親心ですよ。……まぁ、宰相殿の人間性における評判が最悪だというのは、事実だけどね? それはあなただって重々承知しているだろう。宰相殿には才覚があるが、人望はない。だから、あなたには、セレンティア女王陛下という御旗が必要だ。だが ─── 、それは宰相殿が、我が王の御心を重んじるという意味ではない」
一段と低い声で凄んでから、一転して、カイはにこりと笑った。
「ね? エスティア様も俺も、そこを心配しているんだよ」
唇は微笑んでいるが、その漆黒の瞳は笑っていない。言外の脅しだった。
だが、ラシェドは、ハッと鼻で笑っていった。
「私には、あなた方が、我が君を侮られているとしか思えませんがね。我が至高の女王陛下が、そうたやすく、他人の意のままになると?」
「たしかに姫は頑固だよ。そして、頑固なほどにお人好しだ。それに、旦那もね、戦場ではどうであれ、王宮内では真っ当な騎士様だからさ。俺くらいは、宰相殿を警戒しておかないといけないだろう?」
「警戒も何も、あなたは日頃から王宮にいないでしょう」
ラシェドが素っ気なく返せば、カイは大げさに肩を落として見せた。
「それは宰相殿が人遣いが荒すぎるからじゃないかなぁ」
「人手不足なんですよ。苦情なら先王へどうぞ」
カイは、やれやれといわんばかりに首を横へ振って、踵を返す。
そして、最後に、ため息混じりの声でいった。
「俺は、宰相殿が、何ができるか知っている。非情であることも、そのことに何の罪の意識も持たない人間であることも知っている。別に、それについて不満をいうつもりはないよ。俺も同類だからね。だけど……、俺から見ても、あなたはときどきわからない。いったい何がしたいのか。あなたは姫を大切に扱っているように見せかけて、平気でないがしろにする。姫を護りながら、姫を傷つけようとする。……俺は、あなたが、いつか、姫の最大の敵になるのではないかと思うよ」
※
静寂を取り戻した執務室で、ラシェドは一人、書類に目を通していた。
しかし、それも長くは続かない。集中できない自分に苛立ちながらも、ラシェドは書類を置くと、立ち上がり、窓辺へ寄った。月も星も瞬かない闇夜だ。
かがり火だけが、わずかに暗闇を引き裂いていた。
( ─── わかるものか)
苛立ちが収まらない。たかが暗殺者ごときがと、胸の内で罵ってみても、少しも気が収まらない。理由ならわかっている。結局のところ、この苛立ちの原因はカイではないからだ。
自分の胸をかきむしるのは、いつだって、ただ一人だ。
セレンティア。完全なる例外。自分を狂わせる唯一の異物。計算できない何か。
彼女自身がいう通り、特別な才能があるわけではない。天才的な頭脳も、非凡な容姿もない。騎士のごとき強さも、生まれ持った高貴さもない。本当に、ごく普通の人間だ。
ごく普通の ─── けれど、泥にまみれてもなお、信じ抜こうとする、その微笑みのなんと美しいことか!
セレンティアが関わると、ラシェドは、自分のことすら把握できなくなる。
『ごめん、ラシェド』
いいえと、ひそやかに呟く。
いいえ、セレンティア。あなたが謝る必要はない。私は、ただ ─── 。
(あなたが、そんなことを気にするとは思わなかった)
途方に暮れた心地で、胸の内でそう呟く。
嘆く姿が見たいと願った相手が、望み通り嘆いていたというのに、喜びの欠片もない。胸に滲むのは、困惑と、それに深い後悔だけだ。
セレンティアは、いつもそうだ。彼女はいつも繰り返す。
誰もが自分に不審を抱く。誰もが自分を忌避する。それが当然のことなのに、セレンティアだけが、愚かしいほどに、こちらを信じている。あの馬鹿馬鹿しいほどに澄んだ瞳で、当たり前のことのように、こちらへ真心を向けてくる。
彼女にとってはそれは普通のことなのだ。特別な意味などない。セレンティア・ヒューデリアという人間が、身近な相手に向けるありふれた感情だ。唯一ではなく、特別でもない。ただ、セレンティアが、そういう人間だというだけのことだ。
愚かだ。馬鹿げている。自分など信じるべき相手ではないというのに、彼女は、いつまでたってもそれを理解しない。
だからラシェドは何もできない。舞台の上の軍師のようには、彼女を裏切れない。
セレンティアがオリオールと結ばれる未来を考えるだけで、なにもかも壊してやりたくなるのに。外道な真似をしてでも、彼女の夫という地位を手に入れることは、計算の内だけならば可能だというのに。
それでもラシェドは、何一つ、実行には移せない。
なぜなら、セレンティアには、幸福な未来がよく似合う。
何一つ憂いのない、幸せな場所で、彼女に笑っていてほしい。
─── 彼女の視線の先にいる男が、自分ではなくとも。
(……わかるものか)
そう、もう一度だけ呟いた。
誰も聞くことのない、夜の闇へ向かって。
完結です。ここまでお読みくださってありがとうございました。




