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裏切りの宰相と失恋女王  作者: 五月ゆき
本編前の話
22/22

8.悪辣宰相の唯一(完)



お忍びの女王陛下を、無事に王宮内にある私室まで送り届けた後、ラシェドは宰相の執務室へ戻っていた。

夜も更けている。直属の部下たちの姿もない。残って仕事をしていた者も、先ほど全員帰宅させた。

静寂が満ちる室内で、かすかなため息をつく。

苛立ちを押し殺すように、腰を下ろし、荒い手つきで、机の上のランプにだけ火を入れる。そのまま、提出されていた書類を読み始めると、音もなく、室内にあるすべてのランプに火が入った。

億劫な気分で顔を上げれば、暗殺者が微笑んでいる。


「面倒くさがるのはよくないよ、宰相殿。眼を悪くしてしまう」

「あなたの任務は終了したはずですが? 早く帰って、馴染みの娼婦のもとへでも行って差し上げたらいかかですか」

「そうしたいのは山々なんだけれど、姫から頼まれていてね」


無言で続きを促せば、カイは困ったように笑っていった。


「宰相殿が仕事のしすぎで身体を壊さないか心配だから、今夜も執務室へ戻るようだったら止めてほしいって。それから、宰相殿の護衛もね」

「戻った後にいうのでは遅いでしょう」

「仕方ないだろう。力づくは駄目だと姫にいわれているからね。宰相殿を口で説得するのは難しいよといったら、そのときは護衛だけでいいと、姫に諦め顔でいわれてね」

「おお、我が君はなんとお優しい。そのお気持ちだけ、ありがたく頂いておきましょう」

「だから、さっさと帰れって? まぁ、俺もね。宰相殿と茶飲み話に興じたいとは思わないし、久しぶりの休暇を満喫したいのは山々なんだよ。だけど、一つだけ、確認しておきたくてね」


カイの闇色の瞳は軽やかで、口調もまた丁寧だ。

しかし、この男が、この軽やかさのまま、標的の首をへし折る男だと、ラシェドは知っている。

この男が“災厄の黒羽根”と恐れられたのは、その軽さゆえだ。憎悪も憤怒も、その身の内に煮えたぎって、溢れんばかりのくせに、外側だけは、まるで羽根が生えているかのように軽い。

ラシェドは、ふと思いついて、あごに手を当てると、カイへ尋ねた。


「もしかして……、私はこれから、あなたに殺されるんでしょうか?」

「茶化すのはやめてくれないかなぁ、宰相殿」

「いえ、わりと本気で考えたのですが。護衛もついていませんし、あなたがその気になれば、私の首を獲るのはたやすいでしょう」

「そりゃあね、俺がその気になったら、護衛に騎士を何人つけようと、たやすく宰相殿を殺しますよ」

「ほう、騎士を何人つけようとも? オリオールに敗北を喫した者の台詞とは思えませんね」

「旦那は例外。というか旦那は、騎士という括りに入れていいのか? あの人の強さは人間離れしている気がするんだが……、いやいや、人柄でいうなら、まさに騎士様なんだけどね」

「おや、気が合いますね、カイ。私も、オリオールこそ化け物ではないかと、常日頃から思っておりました」

「宰相殿と気が合っても嬉しくないし、俺は旦那を化け物だなんて思ってないから、一緒にしないでほしい。……と、そうじゃなくてね。俺が宰相殿を殺すはずがないでしょう。俺は姫の忠実な配下だよ」

「ええ。ですが ─── 、エスティア妃から依頼があれば、話は別でしょう?」


獲物の首に糸を巻き付けるように、その名を出せば、漆黒の眼差しがすうっと細められた。

空気が重くなったかのような錯覚を覚えるが、しばし睨み合った末に、眼をそらしたのは、カイのほうだった。

はあと、暗殺者がため息をつき、それと共に重圧も消える。


「確かに、エスティア様から頼まれ事はしたよ。……あぁ、本当にうっとおしいな、宰相殿は。どこに糸を張り巡らせているんだか。だけど、その賢い頭でよく考えてほしいものだね。エスティア様が俺に暗殺など頼むはずがないだろう。あの方はただ、姫の将来を案じられているんだよ」

「どこぞの舞台のように、外道な宰相が、心優しい女王陛下に、ろくでなしの夫を迎えさせようとしているのではないかと?」

「政略結婚が王族の常とはいえ、姫にこれ以上つらい思いをさせたくない、幸せになってほしい、という至極真っ当な親心ですよ。……まぁ、宰相殿の人間性における評判が最悪だというのは、事実だけどね? それはあなただって重々承知しているだろう。宰相殿には才覚があるが、人望はない。だから、あなたには、セレンティア女王陛下という御旗が必要だ。だが ─── 、それは宰相殿が、我が王の御心を重んじるという意味ではない」


一段と低い声で凄んでから、一転して、カイはにこりと笑った。


「ね? エスティア様も俺も、そこを心配しているんだよ」


唇は微笑んでいるが、その漆黒の瞳は笑っていない。言外の脅しだった。

だが、ラシェドは、ハッと鼻で笑っていった。


「私には、あなた方が、我が君を侮られているとしか思えませんがね。我が至高の女王陛下が、そうたやすく、他人の意のままになると?」

「たしかに姫は頑固だよ。そして、頑固なほどにお人好しだ。それに、旦那もね、戦場ではどうであれ、王宮内では真っ当な騎士様だからさ。俺くらいは、宰相殿を警戒しておかないといけないだろう?」

「警戒も何も、あなたは日頃から王宮にいないでしょう」


ラシェドが素っ気なく返せば、カイは大げさに肩を落として見せた。


「それは宰相殿が人遣いが荒すぎるからじゃないかなぁ」

「人手不足なんですよ。苦情なら先王へどうぞ」


カイは、やれやれといわんばかりに首を横へ振って、踵を返す。

そして、最後に、ため息混じりの声でいった。


「俺は、宰相殿が、何ができるか知っている。非情であることも、そのことに何の罪の意識も持たない人間であることも知っている。別に、それについて不満をいうつもりはないよ。俺も同類だからね。だけど……、俺から見ても、あなたはときどきわからない。いったい何がしたいのか。あなたは姫を大切に扱っているように見せかけて、平気でないがしろにする。姫を護りながら、姫を傷つけようとする。……俺は、あなたが、いつか、姫の最大の敵になるのではないかと思うよ」





静寂を取り戻した執務室で、ラシェドは一人、書類に目を通していた。

しかし、それも長くは続かない。集中できない自分に苛立ちながらも、ラシェドは書類を置くと、立ち上がり、窓辺へ寄った。月も星も瞬かない闇夜だ。

かがり火だけが、わずかに暗闇を引き裂いていた。


( ─── わかるものか)


苛立ちが収まらない。たかが暗殺者ごときがと、胸の内で罵ってみても、少しも気が収まらない。理由ならわかっている。結局のところ、この苛立ちの原因はカイではないからだ。

自分の胸をかきむしるのは、いつだって、ただ一人だ。


セレンティア。完全なる例外。自分を狂わせる唯一の異物。計算できない何か。


彼女自身がいう通り、特別な才能があるわけではない。天才的な頭脳も、非凡な容姿もない。騎士のごとき強さも、生まれ持った高貴さもない。本当に、ごく普通の人間だ。

ごく普通の ─── けれど、泥にまみれてもなお、信じ抜こうとする、その微笑みのなんと美しいことか!


セレンティアが関わると、ラシェドは、自分のことすら把握できなくなる。


『ごめん、ラシェド』


いいえと、ひそやかに呟く。

いいえ、セレンティア。あなたが謝る必要はない。私は、ただ ─── 。


(あなたが、そんなことを気にするとは思わなかった)


途方に暮れた心地で、胸の内でそう呟く。

嘆く姿が見たいと願った相手が、望み通り嘆いていたというのに、喜びの欠片もない。胸に滲むのは、困惑と、それに深い後悔だけだ。


セレンティアは、いつもそうだ。彼女はいつも繰り返す。

誰もが自分に不審を抱く。誰もが自分を忌避する。それが当然のことなのに、セレンティアだけが、愚かしいほどに、こちらを信じている。あの馬鹿馬鹿しいほどに澄んだ瞳で、当たり前のことのように、こちらへ真心を向けてくる。

彼女にとってはそれは普通のことなのだ。特別な意味などない。セレンティア・ヒューデリアという人間が、身近な相手に向けるありふれた感情だ。唯一ではなく、特別でもない。ただ、セレンティアが、そういう人間だというだけのことだ。


愚かだ。馬鹿げている。自分など信じるべき相手ではないというのに、彼女は、いつまでたってもそれを理解しない。

だからラシェドは何もできない。舞台の上の軍師のようには、彼女を裏切れない。

セレンティアがオリオールと結ばれる未来を考えるだけで、なにもかも壊してやりたくなるのに。外道な真似をしてでも、彼女の夫という地位を手に入れることは、計算の内だけならば可能だというのに。

それでもラシェドは、何一つ、実行には移せない。


なぜなら、セレンティアには、幸福な未来がよく似合う。

何一つ憂いのない、幸せな場所で、彼女に笑っていてほしい。

─── 彼女の視線の先にいる男が、自分ではなくとも。




(……わかるものか)

そう、もう一度だけ呟いた。


誰も聞くことのない、夜の闇へ向かって。





完結です。ここまでお読みくださってありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 比較的短いのにぎゅっと濃縮された物語でした。 主人公は勿論ですが、登場人物がそれぞれ魅力的。 特にカイとか好きです。 でも一押しはやっぱり宰相様ですね~。 鬼畜で拗れまくってて可愛い。 […
[一言] 長編歴史小説の中の、僅かにある甘い部分(?)のみを抜粋したような作品。 何も始まらないのですが、これはこれで面白かったです。
[良い点] すごく面白く、またキャラが全員好みで一気読みしてしまいました。贅沢な時間でした……。その上(完結ということなのに)、通じ合った後の宰相視点などまだまだ読んでいたいと思わせられてしまいます。…
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