5.舞台の上の悪役
『光の騎士オリオールの英雄譚』は、評判通り、素晴らしかった。
舞台の上に描かれた背景は、役者たちが現れて、言葉を発するたびに、本物の光景に変わっていく。役者たちの歌声は、信じられないほど朗々としていて、まるで深い霧雨のように、この広い劇場の隅々まで染み渡っていく。要所要所で奏でられる音楽は、観客の胸をかきむしり、高揚させ、歓喜へと導く。
まるで、神や精霊の祝福が、真実そこにあるかのようだ。
教会が、劇場を警戒したのも無理はない。神以外を崇めてもらっては、教会としては困るのだろう。
わたしは、もっと小規模な、地方を回る旅芸人たちの芝居なら見たことがあったけれど、こんな華やかな舞台を見るのは、生まれて初めてだった。
幕が下りて、再び上がるたびに、わっと拍手が起こる。一瞬で、舞台の上がガラッと変わっているのが、信じられないくらいに素晴らしい。いったいどうやって、あんなわずかな間に、あれほど大きな背景や小道具たちを移動させているのだろう。
わたしはすっかりと目を奪われて、物語にのめり込んでいた。舞台の上の『騎士オリオール』を、観客の一人として応援していた。
そう……、すっかりと、芝居に浸っていたのだ。
─── 舞台の上に、その役者が、現れるまでは。
わたしは初め、その役者が、“だれ”を演じているのか、わからなかった。
オリオールや、“わたし”はわかる。衣装で見分けがつく。
騎士団長の礼装を纏うのはオーリしかいないだろうし、いかにも高貴そうなドレス姿の少女は、十五番目の王女以外にいないだろう。まあ、わたしはあんな美少女じゃないし、王女時代にドレスを着たことも、ほとんどなかったけど。
だけど、途中から舞台に現れたその男優は、多少の脚色がされているという程度じゃなかった。芝居に登場するくらいだから、有名な人物なのだろうけど、わたしでさえ、誰なのか、さっぱり見当がつかなかった。
豊かな口髭を蓄えたその男優は、けばけばしいほどに、金糸や宝玉で飾り立てられた衣装をまとっている。上品とはとても言い難い。十本の指には、馬鹿みたいに大きな石のついた指輪をはめていた。そして、いかにもずる賢く、欲深そうな口調で喋るのだ。
一応、王女の臣下という設定だけど、どう見ても、あからさまに悪役だ。
─── ええ……、誰をモデルにしてるの、これは? 髭があって、歳は40代くらい……?それで、芝居とはいえ、こんな悪趣味な悪役にされても怒らない人といえば、マーヒュか、まさかギュスター?
わたしが、突然の人物当てクイズを、必死に解こうとしていたときだ。
舞台の上の群衆が、よく通る声で、歌うように朗々といった。
「ああ、恐ろしい! あれが三度も主君を裏切った、悪魔のような男だ!」
「おいたわしや、おいたわしや、王女殿下! あんなケダモノに目を付けられるとは!」
「あれは人の皮を被った畜生よ! 己の欲を満たすためなら、誰でも平気で踏みにじる!」
…………はい?
えっ? えっ。えっ?
まさか、あれって。いや、そんな、まさか。でも、あれって、まさか。
「あれぞ裏切りの軍師、アイギス・ラシェド! 己が肥え太ることしか知らぬ強欲の権化! あの男の名を聞けば、天使でさえ呪いの言葉を吐き出すのだ!」
待って。
わたしは、とっさに、自分の口を両手で覆っていた。そうしなければ、舞台に向かって叫んでしまいそうだったからだ。
─── 待って。全然ちがう。そんなのラシェドじゃない。誰がこんな酷い脚本を書いたの。誰が許可したの。ふざけないで。ラシェドを勝手に悪役にしないで。
カッと、燃えるような怒りが全身に満ちて、それから ─── さあっと、血の気が引いた。
だって、隣に、ラシェドがいるのだ。
本人が、わたしの隣で、この“ラシェド”を見ている。
いっ、いやあ……っ!!
わたしは、心の中で悲鳴を上げた。
叶うものなら、このまま気を失って、なにもかもをなかったことにしてしまいたい。
だけど、そんな都合よく失神できるはずもなく、わたしは、恐る恐る、横目でラシェドの様子を窺った。
彼の横顔に、怒りや、不快感が浮かんでいたら、わたしは即座に席を立とうと思った。
わたしたちがいるのは中央の席だ。芝居の真っ最中に立ちあがったら、かなり目立つ。わたしたちの正体に気づかれてしまう可能性もある。それでも、この際、やむを得ないと思った。
けれど、結局わたしは、信じられない思いで、視線を舞台へ戻した。
ラシェドは、まったく表情を変えていなかった。
いつも通りの落ち着き払った面差しだ。冷静で、冷徹な眼差しだ。唇はわずかに微笑んでいるようにも、嘲っているようにも見える。無表情と、嘲笑と、微笑の間を行き来しているような、普段と変わらないラシェドだ。そこからは、どんな感情も、わたしには推し量れない。
舞台の上では、悪役の“ラシェド”が、相変わらず、いかにも悪党らしい振る舞いをしていた。
どうやら彼は、王女の臣下でありながら、敵と通じており、王女を敵国の王の愛妾として差し出すことで、莫大な見返りを得るつもりらしい。そして、光の騎士オリオールが、王女を助け出し、“裏切りの軍師”を倒すところが、この芝居の最大のクライマックスであるようだった。
本物の王女であったわたしからすると、なんというか、もう、乾いた笑いしか出てこない。
─── ラシェドがそんな人間だったら、わたしはもちろんのこと、この国ごと隣国に滅ぼされていたと思うんだけどね……。
しかし、舞台の上のラシェドは、欲深く、金や権力を笠に着るだけの悪党だった。
どんな外見にしようと、どんな性格にしようと ─── だ。これがまだ、凄まじく賢く、恐ろしいほどに冷静で、あらゆる予測と判断を一瞬で下せる人物なら、ラシェドをモデルにしていると思えたかもしれない。
だけど、舞台の上のラシェドは、一言でいって無能だった。平々凡々なわたしでさえ断言できるくらいなのだから、相当だろう。
もっとも、この舞台の主役はオリオールだから、ラシェドを才気あふれる人物にする必要がなかったのかもしれない。でも、それなら、架空の人物にすればよかったのに。
一国の宰相の名前を使って、ここまで無能な悪党として描くのって、ありなの……?
わたしは意識が遠くなるのを感じた。頭が痛い。信じられない。
歴史上の人物だとか、神話の人物だとか、そういうのじゃない。
れっきとした現役の宰相だ。
わたしがいうのもなんだけど、これって、不敬罪にならないの? 大丈夫なの? ステン公爵はここまで条件に入れていたの? わたしは何も聞いてませんけど?
あぁ、でも、カイがいっていたっけ。わたしとオーリの名誉を損なわないことだけが条件だったと。なるほど。それでラシェドが悪役に……。
いや、いや、おかしいでしょ。なにも納得できない。
ラシェドは、こう見えても、一国の宰相ですよ。どこの世界に、自国の宰相を悪党にして芝居を作る人がいるのよ。あぁ、うん、我がヒューデリア王国ですね……。
すごい。悪い意味で凄い。驚きすぎて気絶できそう。ついでに胃も痛い。
ラシェドは、ここまでされるとは、知らなかったんだろうなあ……。
ラシェドは芸術に興味がない。教会の壁一面に描かれた、美しく迫力のある絵画を眺めながら、この教会がいくら儲けているかを推測して見せる人だ。ステン公爵との取引だって、公爵からどれだけ搾り取れるか、ということだけを考えたのだろうことは、想像に難くない。
だけど、そうはいっても、こんなものを見せられたら、いい気はしないんじゃないだろうか?
まあ、ラシェドは、自分の悪評や、周りからの視線というものを、小鳥のさえずりほどにしか感じていないような人ではあるけれど。
でも、それにしても、こんな酷く描かれているのを見たら、嫌じゃないのかな。
少なくとも、わたしは嫌だ。ものすごく嫌だ。
わたしは胃の痛い思いをしながら、早くこの芝居が終わってくれることを祈った。




