4.劇場周辺にて
劇場が近づいてくると、同時に、甘い香りも漂ってくる。
焼き菓子の匂いだ。劇場の周辺には、芝居を見に来た客目当てに、屋台やカフェが多いらしい。ちなみに日が暮れると、今度はお酒の匂いが漂うのだそうだ。酔った客は騒ぎを起こしやすいから、治安を維持するのも大変なのだと、公爵が嘆いていた。
もちろん、劇場をはじめとする王都の治安維持は、公爵の仕事じゃない。王都の法官の職務だ。公爵には公爵の領地がある。でも、彼は、自腹を切って、劇場専門の警備隊を雇っている。治安が悪いなんて評判がついたら、舞台を見に来る客が減ってしまう、それは芝居文化の衰退に関わるから、とのことだった。
趣味もあそこまで貫けたら、もう人生だと思う……。
わたしは、甘い香りに誘われるように、立ち並ぶ屋台へ目を向けた。
何組もの家族連れが並んでいるのは、ヒューデリア王国では一般的な焼き菓子の屋台だ。よく練った粉物を、一口サイズにちぎって、サッと油で揚げて、砂糖を振りかける。揚げたてが最高に美味しい。香ばしい香りと、砂糖の甘さが、口の中でじゅわっと広がるのは、至福のひと時だ。
わたしも大好きなのだけど、悲しいことに、王の食卓には出てこないんだよね。まあ、わたしが望めば、出されるのかもしれないけど、わがままを言うようで気が引けるし、それに、そういう話って、あっという間に噂が広がるからね……。ただでさえ“若い”“女王”は侮られがちなので、庶民的なおやつが食べたいなんて言った日には、それはもう、ね……。
たまにマリーが買ってきてくれるのを、拝みながら、こそこそと食べるくらいだ。
わたしは切ない眼差しを屋台へ向けた。悲しみの反動のように、買いたい欲望がむくむくとわいてくる。
あの屋台に寄ってもいい? と、わたしが口を開こうとしたときだ。
「なに、食べたいの? あんた、あれ好きだものね。あそこの屋台でしょ? あたしが買ってきてあげるわよ」
「ティア、焼き菓子ならば、あの赤煉瓦の店が美味しいと評判ですよ。ええ、屋台の品よりも格段に味が上だとか。私が買ってきて差し上げましょう」
初夏だというのに、突然の吹雪が吹き抜けた、気がした。
ラシェドがティアと呼ぶのはお忍びだからだ。そこはいい。むしろ、ちょっと嬉しい。
でも、マリーは、威嚇する虎のように凶暴な笑顔をラシェドに向けているし、ラシェドは、まるで、突然難癖をつけられた被害者のような顔をしている。どうしてラシェドはこう、善良な被害者を装うのがうまいんだろうか。いかにも『困りましたねえ』といわんばかりだけど、実際に困っているのはわたしのほうである。
「ええっと、そう、両方のお店で買ってみるのはどうかな、……あれ?」
ラシェドのいう赤煉瓦の店へ目をやって、わたしは首を傾げた。
正確には、赤煉瓦の店の、その隣のお店だ。
赤煉瓦の店は賑わっていたけれど、隣のお店はさらにごった返している。
そして、店の前に飾られた大きな絵看板には、見慣れた騎士団長の礼装を纏った、見知らぬ男性が描かれていた。それも一人ではなく、同じ礼装姿でありながら、明らかに別人だとわかる男性たちが、5人ほど描かれている。
「あれは……、誰? オーリじゃないよね?」
「あれがオリオール卿なら、画家は筆を折った方がいいわね」
辛辣な評価だけど、頷いてしまうくらいには、5人とも似ていない。
わたしたちの視線の先を見て、ラシェドが、こともなげにいった。
「ああ、あれはオリオール卿を演じる役者の姿絵ですよ。あの店は、芝居客向けに、姿絵を売っているんでしょう。なかなかの人気らしいですよ。特に、女性客に、熱心な収集家が多いのだとか」
「姿絵って……、役者さんの肖像画ってこと?」
「ええ。もっとも、ティアが考えている“肖像画”ほど立派なものではありませんがね。薄っぺらい紙切れに、役者に似せた絵を載せているだけですよ。経費を考えると、ふむ、あれだけの客足があるなら、なかなかのぼろ儲けですね」
わたしは驚きを込めて、しみじみといった。
「そういう商売があるんだねえ。役者さんの絵だけで、お店がやっていけるなんてすごいね。舞台がそれほど人気だってことだよね」
「まあ、この王都じゃなきゃ、無理な商売よね。地方じゃ成り立たないわよ」
確かに、王都には大小さまざまな劇場があり、歴史も長い。
庶民にとっても貴族にとっても、日常の中の娯楽として根付いている。
他国から訪れた使節団や、商人たちも、王都に来たら一度は劇場を訪れるといわれるくらい、観光地としても有名だ。
まあ、その辺りのことは、わたしも知識として知っているだけで、実際に行くのはこれが初めてなんだけどね。今日は憧れの初の舞台鑑賞である。
わたしはわくわくしながらも、ふと、気になったことを尋ねた。
「役者さんの姿絵ってことは、つまり、オーリを演じる人が、5人もいるの?」
「ええ、それは……、劇場は、このセラスタだけではありませんからね。スターチェスやファルストも有名でしょう? 王都の劇場数と、上演回数を考えると、実際にはもっと大勢いるでしょうから、あの5人は、特に人気がある役者ということなのでしょうね」
「ああ、そっか、そういう仕組み……」
わたしは、頷いてから、ようやく気づいた。
それって、つまり、ラシェド(の役者さん)の姿絵も売っているってこと……!?
オーリがモデルの舞台なら、ラシェドもきっと出てくるよね?
ほぼ確実に王女も出てくるだろうというのは、可能な限り眼をそらしたい現実だけども、ラシェドが出てくるだろうということは、心がわき立つ事実だ。
いや、それはもちろん、本物のラシェドが一番格好良いよ?
でも……、舞台のラシェドを見るのも、とても楽しみだ。きっと、さぞかし素敵だろう。姿絵があるなら、わたしも買って帰りたい。
ほくほく顔になったわたしに、それまで黙って聞いていたカイが、面白がっているような口調でいった。
「それに、宰相殿。光の騎士の物語には、複数の脚本があるんだろう?」
わたしは、意味を掴めずにカイを見る。
カイは、黒の瞳を、愉快そうな、それでいてどこか剣呑に細めていった。
「ティアは聞いていないのかい? 旦那の物語は、いくつものバージョンが作られているんだよ。なんでも、お偉いさんが許可したとかでね。光の騎士と女王陛下の名誉を損なわない限りは、どんな展開にしてもいいんだそうだ」
「どんな展開にしても……? それって、大丈夫なの? 騎士と女王以外にも、モデルになった人はいるんでしょう?」
「御心配には及びませんよ。公爵は芝居狂いですが、無能ではありません。ようやく再開できた劇場を潰すような、下手な真似は致しませんよ」
「まあ、ね。今のところは、問題になっていないようだよ。……それで、脚本家たちは、腕を競って、新たな物語を生み出しているんだそうだよ。特に人気のある脚本は、劇場同士で取り合いになっているんだそうだ」
わたしがちらっとラシェドを見ると、宰相閣下は、いつもと変わらない微笑みで頷いた。
「ええ、そのようですね。芝居文化に活気があるのはよいことですよ。光の騎士の高名とともに、女王陛下の御威光をいっそうと世に知らしめることになるでしょう。素晴らしいことですね」
ああ……、これは、ステン公爵に何か頼まれたのかなと、わたしは内心で察した。
騎士団長の名前を使うなら、普通は、脚本の内容にチェックが入る。女王やその側近の名前を使うなら、多くの制限を受ける。
でも、公爵は、芝居に自由を求めるだろう。
ラシェドのいう通り、公爵は、ああ見えても、芝居狂いな点を除けば、交渉上手な有能政治家だ。何らかの見返りと引き換えに、制限について譲歩を求めたとしても不思議はない。
ラシェドのことだから、その辺りの裏取引について、わたしに明かしたくなかったのかもしれない。
この人は、とにかく、隠し事の多い人なのだ。




