2.母君と暗殺者
「……カイ?」
「久しぶりだね。前に会ったのは……、半年も前かな? あの悪辣宰相ときたら、死ぬほど人遣いが荒いんだからね。姫は元気にしてたかい?」
「うん、あの、突然後ろに立つのはやめてほしいとか、部屋に侵入するのもやめてほしいとか、いつもいってるけど普通に扉を通ってきてほしいとか、色々いいたいことはあるけど……。まずはその、なんで目を閉じてるの?」
「だって、ね。今の姫もたいそう美しいけど、夫ではない俺が目にしていいものじゃないだろう?」
そういわれて、はたと気づく。
わたしは今、寝間着姿だ。さっと血の気が引いて、それから恥ずかしさで顔が熱くなった。
「……ッ、だからっ、ちゃんと扉を通ってきてっていってるのに!」
「すまなかった。これについては素直に謝るよ」
「ちょっと待っていて、すぐに着替えてくるから!」
「ゆっくりで構わないよ。俺の非だ。何なら旦那に首だって差し出すよ」
カイが旦那と呼ぶのは、オリオールのことだ。カイなりの敬称なのだ。
たいして動揺もしていない様子だったけれど、オリオールに斬られてもいいといい出すくらいには反省しているらしい。
わたしは大慌てで寝室に入り、鏡台の鍵付きの棚を開けて、わたし一人でも着替えられる庶民的なワンピースを取り出した。王宮で下働きの女性が身につけているのと同じ、簡素なデザインだ。
どうしてそんなワンピースが女王の部屋に隠されているかといえば、マリーが『万が一のときにはこれを着て、下女に混ざって逃げなさい』と用意してくれたからだ。
親友の心配はありがたいけれど、反乱を起こされることが前提すぎると思う。
わたしが手早く着替えて戻ると、カイは変わらずに目を閉じたまま立っていた。
黒髪に、黒の瞳。異国の血を感じる端正な顔立ちに、全身をぐるりと覆う、まるで夜空を縫い留めたような黒衣の外套だ。
一見すると涼やかな旅人の姿を見つめて、わたしはしみじみと思った。
……多分、あの外套の下は、上半身裸なんだろうなあ。
我が国の常識としては、男女ともにみだりに肌を見せるのは、はしたない行為なのだけど、遠い異国を故郷に持つカイいわく、祖国ではこのくらい普通なのだそうだ。本当かどうかはわからない。ラシェドは「平然と嘘をつくんじゃありませんよ、この裸族が」といっていた。
カイの言い分としては、裸族なわけではなく、ヒューデリアの服はどれもゆったりとしていて、戦うときに邪魔になるから、ということだった。
カイは近接戦闘の専門家なのだ。騎士とも違う、完全に素手での闘いだ。本人曰く「一番好きなのが殺し合い、一番得意なのが暗殺、その他の特技は諜報と変装だよ。よろしくね」とのことである。
わたしは、カイが裸族だろうと何だろうと構わない。わたしが先王に反旗を翻したとき、人質にとられたお母様を、王宮から救出してくれたのがカイだ。カイでなければ、身体の弱っていたお母様を、王都から無事に脱出させることなんてできなかっただろう。心から感謝している。
それに、実のところ、わたしは上半身裸の男性なんて見慣れている。騎士団という男所帯の中では、下着一枚の男なんていくらでもいた。カイの身体を見ても、鍛えてるなあと思うくらいだ。
目を開けていいよ、と、わたしがいう前に、カイは気配で気づいていたらしい。
ぱちりと目を開いて、にっこりと笑った。
「やあ、姫。今日も可愛いね」
「何度もいってるけど、わたしは即位したから、姫じゃないよ?」
「いいじゃないか。美しい女性をさして姫と呼んでいるんだよ」
「はいはい。……ところで、カイ。王都に戻ってきたのは、仕事のため? ラシェドに何か頼まれてるの?」
「いいや、悪辣宰相殿の依頼をようやく片付けたところさ。久しぶりにエスティア様と姫に挨拶をと思ってね」
「あぁ、お母様の所に行ってきたんだ? また畑が増えていたでしょう」
「うん……。無理はしないでほしいんだけど、これが生きがいだからといわれると、強くもいえなくてね……」
「わかる……」
お母様は、若い頃は、風邪一つひいたことがないほど丈夫だったそうだけど、わたしを産んでからの過酷な生活と、幼いわたしを戦場に送られた心痛が重なって、わたしたちが再会できた頃には、すっかり身体を壊してしまっていた。
わたしは、女王となったからには、お母様にもう苦労はさせない、どうか何も心配せず心穏やかな日々をお過ごしください、といったのだけど、実際にお母様が療養に専念していたのは、半年程度だった。
お母様は、じっとしているほうが苦手という、大変行動的な人なのだ。そのうえ、もとが貧乏貴族だ。もう金銭の心配はないのだといっても、何か働いていないと不安だといって、畑を作り出した。現在では、国内の長老方や、他国の学者とも親交を深めて、より丈夫で実りの多い芋を作り出そうと改良に励んでいる。実際、すでに実用化された品種もある。
─── 食料さえあれば、万が一王宮を追われる羽目になっても、しばらくは食いつないでいけるでしょう。
と、お母様は美しい笑顔でおっしゃった。
わたしの周りに、わたしが反乱を起こされて逃亡することが前提な人が多すぎる気がする。
ちなみにオリオールは、ときどきお母様の畑仕事の手伝いにいっている。
あの二人がそろうと、それはもう眩いほどの美貌の姉弟といった雰囲気があるのだけど、実際にやっているのは畑仕事である。
「俺も今日は一日中草むしりをしてきたよ」
「ありがとう、カイ……」
お母様、自分を母のように慕っている青年に草むしりをさせるのは、ちょっとどうかと思います。
わたしは思わず両手で顔を覆った。
「エスティア様のお願いは聞いたからね。今度は姫の頼みを聞いてあげよう」
カイを見上げて、首を傾げたわたしに、夜色の瞳は悪戯に微笑んだ。
「旦那の芝居を見に行きたいんだろう? 俺が護衛についていれば、百人力さ」




