番外編:お仕事争奪戦(後)
わたしは、ようやくラシェドが納得してくれたのだと思っていた。
ホッと胸をなでおろし、仕事の書類を受け取りたいという意思表示で、両手を出した。
けれどラシェドは、なぜか、ゆらりと立ち上がった。
ラシェドは背が高い。もし隣に並んで背比べをしたら、わたしの頭のてっぺんが、彼の肩と同じ高さになるだろう。マリーなんてよく『背だけ無駄にひょろっと長い男ね』と毒づいている。
その長身のラシェドが、わたしの傍に来ると、わたしはいつも彼を見上げる姿勢になる。今もそうだ。窓から差し込む光が、ラシェドの身体で遮られる。
彼が作り出した影が、わたしの視界を飲み込もうとするようだった。
まだ日は高いというのに、突然の夜に落とされたわたしを、彼はまるで、井戸の底を覗き込むように見下ろした。
「我が君」
「……なに?」
平静を装って尋ねながらも、わたしは内心で大いに引け腰になっていた。
だって、近い。
ラシェドの眼が、唇が、頬が、全部が近い。近すぎる。
意識した途端に、怯んでしまうのは、不慣れな乙女心というものだろうか。近くで見ると、ラシェドは本当に、信じられないくらい整った顔立ちをしている。
一方で、自分の容姿を長所に思えたことのないわたしは、髪に癖がついていないだろうか、化粧が崩れていないだろうか、あぁこの部屋を訪れる前によく鏡を覗き込んでおくんだったと、そんなことばかり、空回る思考の中で思ってしまう。
マリーがいつも、女王の身だしなみチェックをしてくれるから、大丈夫だとわかってはいるけれど。
「私は陛下を信じています。ですが……、陛下は私を信じて下さらないのですか?」
そのいい方は卑怯だ。
わたしはじっとりとラシェドを睨みつけたけれど、彼は甘く微笑むだけで、意に介した様子もなく続けた。
「自分の身体のことは、自分が一番よくわかっているのですよ。私は決して、無茶や無謀を犯しているわけではありません。それに、毎日寝台でただ寝転がっているだけなど、退屈で退屈で……、それこそ死んでしまいますよ?」
実際に死にかけた身でそういう脅し文句を口にするのは、本当に最悪だと思う。
わたしはラシェドを睨みつけたままいった。
「悪いけど、体調については、アメリアを一番信頼しているから」
「医官殿にもわからないことはございましょう……、我が君?」
「あなたにはわかるっていうの? ……なに?」
「なぜ後ろに下がるのですか?」
「……気のせいじゃない?」
あなたが近すぎると緊張してしまうから、なんて、とてもいえない。
ラシェドは探るようにわたしを見つめて、それから一歩踏み出した。
わたしは思わず、一歩下がってしまう。
じりと、奇妙な緊迫感が生まれる。ラシェドの眼が細められた。
彼はこういう顔をすると怖い。
冷酷に、非情に、獲物を眺める顔だ。あの眼で見られたら、もう終わりだ。
気づいたときには繰り糸で全身が雁字搦めになっていて、彼が作り上げた舞台で死ぬまで踊るしかない。
わたしの状況はまさに、蛇に睨まれた蛙といったところだった。猫に目をつけられたネズミでもいい。
わたしは眼だけで逃げ道を探したけれど、ラシェドが近づいてくる方が早かった。
かつん、かつんと、靴音が響く。早くはないけれど遅くもない音だ。
それから、わたしのうろたえた足音が重なる。
迷いは致命傷になると、あれほどオリオールにいわれていたのに、わたしときたら亀よりも判断が遅かった。どうしようと焦っているうちに、追い詰められていく。
気づいたときには、わたしの背中には、壁の硬い感触があった。
目の前には、狂った三日月のような眼をして嗤う男がいる。
「我が君?」
呼びかけはゆっくりしていた。恐ろしいほどに。
「なぜお逃げになるのでしょうか、我が高貴なる女王陛下?」
「……にっ、逃げてない、です……」
「おや、私の思い違いでしたか? 私はてっきり……、貴女が今さら後悔しているのかと思いましたが。やはり、私のような、英雄でも善良でもない男を求めるなど、いっときの気の迷いだったのではありませんか? ええ……、よくある話ですよ。死にかけた男に同情して、それを愛と見間違うというのはね。我が君が、罪に感じる必要はございませんよ」
凍るように冷たい声だというのに、眼差しだけは優しかった。
優しくて、温かくて ─── 、深い諦めに満ちていた。
わたしの想いを勘違いだと、簡単にいう。簡単にいって、気にしなくていいと慰める。その薄青の瞳の奥にあるのは、深く暗い諦めだ。
それであなたは優しいつもりなのか。あんまりだ。ひどすぎる。
「なんでそんな話になるの……!」
わたしはギッとラシェドを睨みつけて叫んだ。
「わたしが逃げたのは、あなたが近いから! あなたが近いと、好きすぎて、どうにかなってしまいそうだから!」
ラシェドの薄青色の瞳が、ぱちりと瞬いた。
わたしは羞恥に耐えながら、ラシェドを睨みつけて続けた。
「そうだよ、逃げたよ。だってラシェドが格好良すぎるから! わたしが面食いなのは知ってるでしょ。自分の顔の良さを自覚してよ。そのうえサラっと甘い言葉を口にするし……! 今までだったら、あなたの憎たらしい言葉の数々で、何とか冷静を保てていたのに……! 好きな人に甘い言葉をぽんぽんいわれたら、わたしは困るの。どうにかなっちゃいそうだから!」
始めは呆気にとられた顔をしていたラシェドが、少しずつ唇を笑みの形にゆがめていく。
にやにやと、唇の端を大きく引き上げて、愉快でたまらないという顔になる。完璧に調子の乗った顔だ。腹立たしい。今にも高笑いしそうな悪人顔をしているのに、それでも変わらずに美形であることも腹立たしい。
獲物をなぶる猫のような顔をした宰相が、薄青の眼をらんらんと輝かせて、わたしにさらに一歩近づく。
まるで壁とラシェドに挟まれたような格好になったわたしに、ラシェドは舌なめずりするような声で囁いた。
「存じませんでした。我が君は、それほどに、この顔をお気に召していらっしゃったのですね」
「ちっ……、ちがう! 美形は平等にみんな好きなの! いや、あなたが一番好きだけど!」
だめだ。墓穴を掘っている気しかしない。さっきからずっと自分が羞恥に落ちる穴ばかり掘っている気がする。その証拠にラシェドのにやにや笑いが止まらない。最悪だ。
これはきっと、ラシェドが近すぎるせいだろう。薄青の瞳が恐ろしいほどに美しくて、さっきからずっとばかになってしまっているのだ。冷静にものを考えられない。
わたしは彼から目をそらして、必死にいった。
「この距離は不適切だと思うんだよね、宰相……!」
「おやおや。どうなさったのですか、我が君? 私は以前から、ずっと、この距離でお言葉を交わさせていただいておりましたよ?」
「しれっと嘘をつくのはやめてほしい」
「何をおっしゃいます。私が我が君に偽りを申し上げるはずがございませんでしょう? 以前とは違って感じられるというなら、それは……」
ラシェドは、些細な反応一つ見逃すまいとするように、わたしの眼を覗き込んで囁いた。
「それは、我が君が、この身をことの外意識されているからではありませんか?」
冷酷で、残酷で、そして背筋がぞくりと震えてしまうような声だった。
─── あぁ、この人は、わたしが動揺するとわかっていて、わたしのうろたえた顔が見たくて、わざとやっているのだ。
そう気づいた途端、わたしのさほど長くはない堪忍袋の緒が、そこでまた、ぶつりと切れた。
両手でぐいとラシェドの胸を押して、腕の長さ分のわずかな距離を確保すると、腹の立つ恋人に嚙みつくようにいった。
「意識なら昔からしてる! わたしの告白を聞き流したのはあなたでしょう!」
ラシェドは、素知らぬ顔で、そっと目をそらした。
なんて卑怯な男だ。
でも、そういう狡いところもちょっとかわいい、なんて思ってしまうのだから、わたしもたいがい終わっている。アメリア流にいうなら手遅れだ。つける薬もない。
わたしは、挫けそうになる自分を奮い立たせていった。
「わたしたちの関係は、その……、まだ公にしていないし、婚約もしていないので、宰相には慎みを持ってほしい、です!」
「慎み、ですか……。悪辣宰相には、不似合いすぎる言葉だと思うのですが……」
「いいえ。職場恋愛には慎みが大切なんだよ。この間、侍女たちが、そういった噂話で盛り上がっているのを聞いたんだからね。職場であからさまにべたべたするのは周りの顰蹙を買う行為。わたしは上に立つ者として、皆の模範とならなくてはなりません。……と、いうことで宰相」
「何でしょう、我が最愛の女王陛下?」
いった端からそういう呼び方をしないで!
そう、叫びたくなるのを、ぐっとこらえた。
この悪趣味な恋人のペースにハマってはいけない。振り回されるだけだ。
慎みを持つ気がさらさらなさそうな男を、ぎろりと睨みつけて、どうやって口を封じようか考える。残念ながら、わたしがラシェドに打てる手は少ない。これといった弱みを持たない人なのだ。オリオールの手料理を、といっても、二度目は怯んではくれないだろう。
さんざん考えた挙句、わたしは、物理的な手段を選んで、低い低い声で告げた。
「次にふざけた真似をしたら、その銀髪をむしってやるから、ラシェド」
ラシェドの酷薄な瞳が、まん丸く見開かれる。
それから彼は、耐えきれないといった様子で吹き出した。
「ふっ……、はははっ、何をおっしゃるかと思えば、我が君……っ!」
「わたしは本気よ。その頭にハゲを作ってやる。美形が台無しになればいいんだ」
わたしばかり動揺して、憎たらしいったらない。
そう恨みを込めて見つめたけれど、ラシェドは肩を震わせて笑っている。
この人がこんな風に、嘲笑ではなく、素で笑うというのは結構珍しいことだ。いつもの悪辣さが抜けた素顔は、優しげな好青年のようにさえ見える。
ラシェドは、頬に笑いを滲ませたまま、わたしを見つめていった。
「それは困りますね。我が君は、私の外見を、非常に気に入っておられるとのことですので」
「……外見以外も、大好きだけどね」
ラシェドは、すうっと笑みを消した。
それから、わざとらしいほどに深いため息をつくと、珍しく、本当に困っている瞳でわたしを見た。
「我が君……。男に慎みを望むのなら、貴女もめったなことをいうものではありません。貴女の前にいるのが私でなければ、誘惑に負けて下劣な真似をしないとも限らないのですから」
「ラシェドにしかいわないもの」
「 ─── 我が君…………」
いつになく苦悩した声で呼ばれて、わたしは内心で留飲を下げた。
晴れ晴れとした気分で、ラシェドの影から抜け出して、寝台に散らばっていた書類をさっとかき集める。
書類の束を、右手で胸に抱えて、足取り軽く部屋を出て行こうとしたとき、後ろから左手を掴まれた。
身体をこわばらせて、ぎりぎりと振り向くと、ラシェドが美しく微笑んでいた。
「いけませんね、我が君。相手を確実に仕留めたかを確かめない内に、背を向けるとは。狙い撃ちしてくれといっているようなものですよ?」
「味方を仕留める必要性を感じないんだけど……!?」
「その書類を置いていってくださるのでしたら、私もこの美しい手を放しましょう」
なんてしつこい男だ。まだ納得してなかったのか。
わたしはラシェドの手を振り払おうとしたけれど、訓練嫌いの彼のどこにそんな力があったのか。ラシェドの硬く骨ばった指先は、外れる様子もなかった。
それどころか、ラシェドの指が、するりと、わたしの指に絡みつく。繰り糸のように ─── 、それでいて、恋人のように、手を繋がれる。
心臓がばくばくと鳴った。動揺のあまり、書類を抱える力が緩む。
ラシェドはするりと近づいてきて、わたしから仕事を取り上げようとして、そこで……。
「 ─── 何をしているんですか、ラシェド」
天の助け、もとい、オリオールの声がした。
ラシェドと二人で、そろりそろりと声の方を向けば、オリオールが扉を開けた所に立っている。
いつもは穏やかな若葉色の瞳が、今は突き刺すように冷たくなっていた。
オリオールの手は、すでに剣にかかっている。この間合いなら、オーリは、一瞬でラシェドの首を落とすだろう。そう感じられるほどの殺気だった。
そう、殺気だ。オリオールは明らかに、ケダモノを見る眼でラシェドを見ていた。
その様子に、わたしはハッと我に返る。
今の態勢ときたら、ラシェドに片手を封じられたまま、無理やり迫られているようなものだ。オーリが誤解するのも無理はない。
わたしは慌てて、ラシェドの手を振り切った。今度はラシェドも抑えつけようとはしなかった。オーリが激怒していることを察しているからだろう。
オリオールは決して短慮な人ではないけれど、一度敵とみなしてしまえば躊躇はしないのだ。
「誤解しないで、オリオール。何でもないの」
わたしはにっこりと笑って見せた。多少、頬が引きつってしまうのは仕方がないだろう。
「宰相から仕事を取り上げていただけよ。あなたはどうしたの? 宰相に何か用事があった?」
「……いえ、大したことではございません」
オリオールが、不承不承といった様子ながらも、殺気を収める。
わたしは密かに胸をなでおろした。
いつものことではあるけれど、ラシェドほどオーリを怒らせるのが得意な人間もいない。最悪の特技である。本当に慎んでほしい。
わたしは女王の笑みを張り付けたままいった。
「そう。では、わたしの護衛を頼めるかしら? 執務室へ戻るわ。送ってちょうだい」
「……御心のままに、女王陛下」
オリオールが騎士の礼を取る。
わたしは最強の騎士の傍まで行ってから、わざとらしく、思い出したように振り返った。
「ああ……、宰相は、休養を第一と考えなさい」
わたしは得意満面な顔をしていただろう。子供っぽいといわれてもいい。ラシェドの手から仕事を奪還したのだ。素晴らしい戦果である。
「一度は命が危うかった身ですからね。重傷者を無理に働かせるほど、わたしは臣下に困っていないわ。医官の許しが出るまで、気兼ねなく休みを取りなさい」
「……御意に、女王陛下」
ラシェドが完璧な笑みを浮かべてみせる。
そう、彼を知らない人間から見たら、完璧に見えるだろう笑みを。
だけどわたしは、ラシェドとは付き合いが長いのだ。彼の頬がかすかに引きつっていることを、きちんと見抜いている。
わたしは、それこそ、芝居の中の悪役のように高笑いしたくなった。
ふふふ、わたしだってたまにはラシェドに勝つんだよ。
いつも翻弄されっぱなしってわけじゃないからね。これぞ女王の威厳というものですよ。わたしがいつもいつも、あなたが好きすぎて負けると思ったら、大間違いなんだからね。
……そう、勝利の美酒に浸っていたわたしは、すっかり忘れていたのだ。
ラシェドが、執念深い男だということを。
そして、報復は必ずする男だということを。
そのときのわたしは、まだ ─── 、心臓に悪い日々が迫っていることに、気づいていなかった。
甘い話をといわれたので頑張って甘くしてみました。
今度こそ完結です。ここまで読んでくださってありがとうございました。




