3-9.因縁
「やめろぉぉぉおおっ!」
俺はさらに足の回転をあげ、全身全霊で男へと突進する以外できなかった。
しかし……、俺の手は男の背に届かず、空を切った。
男が俺に気づき、身をひるがえしたのだ。
「チッ!」
男はナイフをかまえなおすと、俺に切っ先を向ける。俺は警戒を払いながら、じりじりと男に詰め寄った。勝算なんかない。ただ、鈴を助けたい一心でここまで来てしまっただけだ。武器もなければ、武術の心得すらない。こんなことなら、体育の授業サボるんじゃなかった。柔道の基礎くらい、ちゃんと習っておいても損はなかったのに。
俺が睨みつけると、男もまたナイフを強く握りしめる。黒いフードをかぶった男の長い前髪の隙間から、ぎらついた両目が覗いていた。
体格のよさと足の速さから俺と同じか、少し年上くらいかと思っていたが、どうやらもう少し年齢は高そうだ。日頃から鍛えているのか、衰えは感じさせなかった。
「邪魔するな!」
野太い声に明確な憎悪が視えた。ゾッとするような殺気は、単純に鈴を想う嫉妬をはるかに超えた因縁めいた深いものだった。俺は思わず足を止める。
「こうなったのもお前のせいだ。全部。今度こそ、邪魔させない」
男はナイフをぎゅっと握りしめると、ゆっくりと後退していった。男の後ろには鈴がいる。逃げてくれ、と願っても、鈴はすっかり腰を抜かして動けないようで、その場で震えていた。男は俺に刃を向けて牽制したまま、そんな鈴ににじりよる。
「やめろ!」
俺がどなるも、男は止まらない。そのまま鈴の横に膝をつけたかと思うと、鈴の顔に自らの顔を寄せ、ナイフを彼女の首元にあてがった。鈴の顔にいよいよ恐怖が浮かぶ。
「ひっ」
「……鈴ちゃんは、俺の女神なんだ。俺だけの、女神だ」
「だったら、そんなことやめろ!」
「うるさい! うるさい、うるさい、うるさいっ!」
男が力をこめて叫ぶと、ナイフはより鈴の首に近づく。鈴は身を縮こまらせ、目を逸らした。俺が黙ると、男はニタリと笑って鈴を舐め回すように見つめる。
「誰かに奪われるくらいなら、こうしたほうがいいんだ。俺は、もう間違えない」
フフ、ハハハ、と男の狂ったような笑い声が辺りに響いた。
「しをのまつりのときは、失敗したと思ったんだ。やっぱり、てっとり早くこうしておけばよかった」
しをのまつり。その名前に、鈴がピクリと反応した。それまで怯えていた鈴が、唇を噛みしめて男に視線を向ける。
「……あんた、もしかして……」
鈴が男を睨みつけると、男はいよいよ心酔したような表情で鈴を眺めた。
「まさか、自殺しようとするだなんて思ってもみなかったんだよ。でも、全部まつりが悪いんだ。マネージャーなんかと結婚したんだから。まつりは俺を裏切ったんだよ。だから、かわいそうなのは俺なんだ。なあ、鈴ちゃんは、わかってくれるよね?」
しをのまつりは、ストーカー被害にあって自殺に及んだ。以前、鈴が話してくれた内容が頭をよぎる。
ストーカー被害の相手こそ、この男なのだ。
鈴の表情が痛々しいほどにゆがむ。そこには悔恨や悲哀、絶望が混在していた。
「ああ、その顔……、鈴ちゃんは本当に、しをのまつりの生き写しだ」
男は確信めいたように笑みを見せた。鈴の手がわなわなと震え始める。相手を殴るつもりだとわかった。
「鈴! やめろ!」
俺の怒号に、鈴は俺を睨みつける。なんで、止めないで。鋭い眼光がそう訴えている。だが、それは愚策だ。相手を逆上させるだけ。
俺はゆっくりと息を吸って、男に視線を合わせる。逃がさない。ましてや鈴を傷つけさせやしない。
なんとかして男の気を鈴から逸らさなければ。警察や、みゃーこや店長が応援に駆けつけるまでの時間を稼げば勝算はあがる。そのために、俺が犠牲になってでも。なにかないか。男の気持ちを、俺に向けさせるなにか……。
男の今までの言動を思い出す。俺にできるのは、声色から相手の心を読み解くこと。
――こうなったのもお前のせいだ。
男が俺に向けた憎悪が思い出される。切迫した今の状況に対して放たれたにしては、重すぎるほど黒く染めあがった声音。まるで、昔、俺が男の人生を狂わせたとでも言うような……。
「……もしかして」
俺は、自らが犯した過ちを思い出した。
家族を崩壊させた、あの夏の日。俺が壊してしまったのは、自分たちだけではない。
あの日、俺が罪を裁いた相手は、もうひとりいた。
俺が瞠目すると、男が反応を示した。
「思い出したか?」
「お前は、あの日のっ……!」
「俺は、お前を忘れた日なんかない」
くたびれた男の顔が、鮮やかによみがえる。十年前の、あの日の記憶に重なる。父が盗撮の罪で現行犯逮捕した男。作り笑いとへたくそな嘘を並べた、あの男が。
男の視線が鈴から外れ、俺のほうへと移る。
「お前のことを見つけた日、運命だと思ったよ。お前を殺し、鈴ちゃんを手に入れるか。それとも、鈴ちゃんをお前の目の前で殺したほうが復讐になるのか……。毎日考えていた」
男は下卑た笑みを深め、「選ばせてやろうか」と鈴に押しつけていたナイフを俺へ向ける。
「お前が死ぬなら、鈴ちゃんは殺さない」
男はゆっくりとナイフを鈴に向ける。鈴は目に涙をためながらも、男を睨みつけていた。
「拒むなら、鈴ちゃんを殺す」
さぁ、どっちだ? 男がニタリと口角をあげた。
「……選択肢なんか、ないだろ」
俺が男ににじりよると、鈴が「やめて!」と叫んだ。男の腕の中で必死にもがくも、男はびくともしない。
「鈴を離せ」
俺はもう一歩足を進める。男はヒュゥとからかうように口笛を吹いて、刃先を俺のほうへゆっくりと移動させる。男はゆっくりと鈴を解放すると、鈴はカクンとその場にへたりこんだ。
これで、目的は果たされた。
声色を視る能力も、捨てたもんじゃなかった。
あとは、俺がなんとしてでも生き残るだけ。
「化けものめ」
男がはき捨てる。俺が睨みつけると、男は俺にナイフを振りかざした。
「っ!」
咄嗟に目を閉じる。
暗闇の中、男の笑声が狂ったように赤く明滅していた。




