2-30.わかるよ
電車に乗り、俺と鈴は閉じた扉越しにホームを見つめた。無人のホームを置き去りにして、電車が動き出す。とりあえず、追いかけてはこなかったようだ。相手も、自分の顔を見られることを恐れたのかもしれない。ホームが見えなくなるまで目をこらし続けたが、結局、ホームに人が降りてきた気配はなかった。
俺たちは座席に座り、ようやく安堵の息を漏らす。鈴は震える手でスマホをポケットから取り出すと、早々に電源を落とした。
「番号まで知ってるなんて」
「知り合いか? 心当たりとか」
「……わかんない。そもそも、最近はなんにもなかったのに」
鈴は恨めしそうに呟いて、疲れた、と窓にもたれかかった。
もしかしたら、ストーカーはあえて事件を起こさなかったのではないか。油断させ、時期を見計らい、鈴がひとりになったところを……。そう考えて、俺はぞっとする。もしも、今日、俺があそこにいなかったら鈴はどうなっていたのだろう。
鈴にこれ以上追い打ちをかけたくはない。俺は嫌な妄想を頭から追い出し、バクバクとうるさい心臓を落ち着かせるために深呼吸を繰り返す。
「とりあえず、警察、だよな」
「うん」
「あとは、みく姉にも……」
連絡を、とスマホを取り出したところで、俺は一方的に飛び出してきてしまったことを思い出した。俺があからさまに動きを止めたからか、鈴が「なに」と首をひねる。
「あ、いや……」
みく姉と喧嘩した。いや、喧嘩っつうか、俺が、一方的にちょっと。いろいろ。
ごにょごにょとそんなことをごまかしながら話すと、鈴は大きなため息をつく。
「マジ使えない」
「人をものみたいに言うなよ」
「てか、みくちゃんに八つ当たりしたとかサイテー」
「やめろ。俺が一番わかってる」
睥睨され、厳しい視線が俺に刺さる。今度は俺が大きなため息をつく番だった。
「ほんと、最低だよ」
思わずこぼせば、車内の静寂が急にくっきりと鮮明になって、俺たちに迫ってくるような気がした。規則正しい走行音が、俺と鈴の間を駆け抜けていく。続いて、車内にアナウンスが流れる。目的地は決めていなかったが、ひと駅先で降りるのは心もとない。俺も、鈴も、立ちあがる気にはなれなかった。駅へ近づいているのか、電車の速度が落ちていることを耳で感じていると、鈴がふいに
「いとこって」
と切り出した。
「どんな感じ?」
「どんなって……、うーん、たまに会える特別な兄弟、みたいな? 俺の場合、みく姉はお姉ちゃんだけど」
「ふぅん。みくちゃんって、昔からああなの?」
「ああって?」
「優しいし、かわいいし、でも、しっかりしてて……。アタシ、あんなお姉ちゃんがいたらよかったなって、ずっと思ってた」
鈴は心の底からそう願っているのか、真面目な顔をしていた。
「そういう意味なら、昔からだな」
「面倒見もよくて、お人好しで」
「うん。それも昔から。俺も、よく助けられてた。今も、だけど」
「そんなみくちゃんに迷惑かけるとか、マジサイテー」
二度目の最低評価を食らい、俺は「う」と胸元を押さえる。鈴は反省しろと言わんばかりにそんな俺を鼻で笑う。つかの間、鈴の表情は真剣なものに戻った。
「なんで、喧嘩したの」
純粋な疑問。興味と心配が混ざったような、けれど、あのみく姉と喧嘩する理由なんかひとつも見当たらない、と考えているのが手に取るようにわかる声色。
俺が答えに困っているうちに、電車はホームに滑りこみ、人を乗降させ、再び走り出す。
俺と鈴の旅路はまだまだ続きそうだった。
窓の向こうに、暗闇が広がる。ガラス越しに鈴と目があった。鈴は、想像していた以上に俺をまっすぐに捉えていた。
「あんたがアパートに来たことと、関係ある?」
逸らされることのない目に、俺はいよいよこらえきれなくなった。黙っていることも、嘘をつくこともできたのに、なぜか、鈴からは逃げられないような……いや、正確には、鈴のこの質問から逃げてはならないような、そんな気がした。
「そう、かも」
俺が渋々うなずくと、鈴は「ふぅん」と興味があるのかないのかわからない温度で相槌をうった。それが逆に心地よく、同情や憐憫をされないことに心が軽くなる。
俺はここまできたらもうごまかせない、と意を決する。
みく姉以外の人に話すのは、はじめてだ。
まさか、それが鈴だなんて、思いもしなかったけれど。
「俺の母さん、いなくなってさ」
口にした途端、それまで押さえこんできたものが一気にあふれだす感覚に襲われた。どうすることもできず、その感覚に翻弄されるがままに話す。
十歳の俺が、父と母の離婚の原因を作ってしまったこと。父がいなくなり、母が女手ひとつで育ててくれたこと。だけど、その母も先日、突然姿を消したこと。そんな俺を、みく姉が助けてくれて、アパートに引っ越してきたこと。過去のことが原因で、みゃーこや硝子さんから家族だと受け入れられても、みく姉にどれほど尽くしてもらっても、家族というものをどうしても信じられないこと。
自分が持つ能力とみく姉の能力、母が失踪した原因をみく姉が知っていて黙っているかもしれない、という情報は伏せたまま、けれど、言いたいことのほとんどを言いつくしたような気持ちになって、俺はハタと我に返る。
「ほんと、わがままだよな」
鈴なら肯定してくれるんじゃないか。こんな俺を叱咤して、罰を与えてくれるのではないか。そう思っていたし、むしろ、そうしてくれたほうがいっそ気が楽だとすら思っていた。
なのに、鈴は違った。
美しくピンと背筋を伸ばし、神社にそびえる神木のように静謐な表情で窓の外を見つめている。
そして、たったひと言、
「わかるよ」
そう言った。




