2-29.逃避行
アパートを飛び出し、俺はあてもなく走る。
冬の夜風が熱くなった頬を撫で、次第に頭が冷やされていく。
母さんのことも、みく姉のことも、俺の勝手な憶測にすぎないのに、気持ちが高ぶってしまった。まだ、なにも決まったわけではない。思いこみでみく姉を傷つけてしまったかもしれない。母さんだって、なにか事情があったのかもしれない……。
冷静になるにつれ、走る速度は落ちていく。駅前の商店街へと続く通りに出て、街灯の多さによりはっきりと現実が浮き彫りになる。やがて、俺の足は完全に止まった。
肩で息をする。膝に手をつき、呼吸を整える。そうして落ち着いたころには、目の前に見慣れたシルエットがあった。
「なにしてんの?」
怪しむように、鈴が俺を見下していた。どうやら、レッスンからの帰りだったらしい。
俺は心配させたくなくて、つい、癖でへらりと笑みを作ってしまう。
「い、いや、ちょっと、ランニング? 的な? 鈴こそ、ひとりで大丈夫なのかよ」
「被害も出てないし、もう二週間も経ったから大丈夫だろうって」
鈴は俺の咄嗟の嘘には言及せず、今日から送迎が事務所近くの駅までになったのだと言った。しかも、不公平だとほかのメンバーから言われ、最終的にはメンバーみんなが車に同乗していた、と鈴は愚痴っぽく漏らす。
「か、帰るなら、一緒に帰ってあげてもいいけど?」
別に怖いとかじゃないし、とツインテールを指先でいじる鈴の姿は愛らしく、俺の興奮をなだめすかす。鈴を癒し系だと思ったことはなかったが、もしかしたら、俺が知らなかっただけでそんな一面もあるのかもしれない。
しかし、あんなに取り乱して飛び出してきた手前、あっさり帰るのもどうだろうか。みく姉は安心してくれるかもしれないが、謝罪されそうで気まずい。俺が謝るべき立場なのに、多分、みく姉はそうさせてはくれないだろう。きっと、みく姉もパニックになっている。そんな状況でまともに会話ができるとは思えないし、俺だって、今この状態でさまざまなことを打ち明けられても素直に聞き入れられる自信がなかった。
時間がほしい。せめて、一日くらい整理をする時間が。
俺がぐるぐると考えごとをし、だんまりを決めこんでいると、鈴が俺を小突いた。
「ちょっと。黙られたら気まずいんだけど」
「あ、悪い……」
答えあぐねている俺に、鈴はますます顔をしかめる。
「なんか、辛気くさくない?」
「え、いやぁ……ははは……」
視線をはずして頭をかく。だが、うまく取り繕うことができなかった。むなしい笑い声がアスファルトへ吸収されていくだけで、足は動かないし、それ以上の話題も出てこない。寒空の下、鈴を引き止めるなんて、それこそファンに見られたら殺されそうなことをしているという自覚はあるのに、なぜかひとりにもなりたくなかった。鈴になぐさめてもらいたいだなんて思ってないけど、今は、鈴の悪口や白い目ですら、俺にとってはありがたい。
「うざいんだけど」
「だ、だよな。俺も自分にそう思うわ」
「言いたいことがあるなら、はっきり言いなさいよ」
鈴のばっさりとしたもの言いもありがたい、なんて末期だとわかってはいるけれど。
俺も、みゃーこや、硝子さんや、みく姉みたいに、ヒミツを打ち明けてしまえたら、楽になるのだろうか。
自分の能力も、そのせいで父親がいなくなったことも、能力のせいで母が失踪したかもしれないことも。すべて。
いや、でも。
それを言って、信じてもらえなかったら? また、化けものとののしられたら――。
想像して、俺は身震いした。
鈴の悪口は愛情の裏返しだ。声を視て、そうわかっているからいつもは安心して聞いていられるだけであって、本気で言われたらどうだろう。俺は今度こそ、立ち直れないのではないだろうか? 両親がいなくなったことは、すべて俺のせいだと他人から突きつけられたら、違うと言い切れるだろうか? 俺は……。
怖い。もうこれ以上、誰かに嫌われるのも、誰かを失うのも、俺の前から誰かがいなくなることも。
耐えられない。話せない。そう思ったときには、俺の口元にはゆがんだ笑みが浮かんでしまう。取り繕うための仮面をかぶってしまう。俺はそんな生きかたしか知らなかった。
へらへらする俺を見て、鈴は口をつぐんだ。呆れや哀れみ、寂しさ。鈴のほうが、そんな感情をないまぜにした複雑な表情をしている。その事実を俯瞰し、自分が恥ずかしくなる。俺なんかよりよっぽど、鈴のほうが傷ついている。
だが、その無言も長くは続かなかった。鈴のスマホが音を立てる。ビクリと体を揺らした鈴は、ポケットからスマホを取り出した。鈴は画面を一見し、顔をしかめてすぐさまタップする。音が止み、鈴はため息をつく。
「アタシ、帰るけど」
うじうじしていたいなら、ひとりでやってくれ。鈴はいよいよ歩き出す。引き止めたくて、つい声をかけた。
「電話、出なくていいのかよ」
俺の声にかぶって、鈴のスマホがもう一度けたたましく鳴る。鈴はあからさまに不機嫌な目つきで画面を睨んだ。うざい、とこぼしたのは、俺に対してか、電話に対してかはわからない。ただ、そこに明確な嫌悪が視えて、俺の心が跳ねた。
鈴は渋々スマホを耳に当てる。
「もしもし?」
鈴の表情が一気に陰った。眉間にしわがより、「もしもし?」と繰り返した声にはいらだちと怯えが混ざっている。
鈴はスマホを耳から離した。通話を終了させようと、彼女の指が伸びる。
そのとき、スピーカーからざらついた声が聞こえた。
『近づくなって、言ったよね?』
俺の背筋には悪寒が走り、鈴の顔は凍りついた。
鈴はすぐさま俺を見て、ついで、背後を振り返った。鈴の後ろには、ただ街灯が煌々と並んでいる。
気づけば、鈴の手を掴んでいた。
「行くぞ!」
アパートとは逆方向に、俺は鈴を連れて走り出す。ここはダメだ。人のいるところへ。できるだけ、俺と鈴の姿を隠せるくらい、多くの人がいる場所へ。
鈴も俺の言わんとすることを察知したらしい。俺の手を握り返して、「駅に!」と悲痛な声で言う。俺たちは無我夢中で地面を蹴りつける。
俺と鈴の目的が、足音とともに重なる。
ここにいちゃダメだ。俺も、鈴も。
逃避行の幕が開く。その先になにが待ち受けているのかなんて、考える暇すら俺たちには与えられなかった。




