1-3.ひと筋の光
学校を休んで三日目。母さんを待つ俺はリビングと玄関の往復を繰り返していた。
友人や先生からの連絡には風邪だと嘘をつき続けている。ご飯もろくに食べていない。風呂にも入っていない。これは全部なにかの間違いだったと言えるように、いつまでも母を待ち続けている。
だが、もう限界だった。七十二時間。それは、人間が孤独に耐えられる時間なのだと思う。絶望に慣れきった体が空腹を思い起こし、俺はよろよろとコップを掴んで水を飲む。もう、限界だ。何度、そう思ったのだろう。
俺の目が、玄関のドアノブへと吸いこまれる。母さんを、迎えにいかなくては。でも、どこに? だけど、このままこうしていてもしかたない。でも、もし帰ってきたら? 入れ違ったらどうすんだよ。
悶々とドアノブを睨んでいると、外からヒールが鉄板の階段を踏み鳴らす音が聞こえた。
母さん……?
俺の足が、意識より先に玄関先へと走りだす。
「母さん!」
勢いよく扉を押し開けた。
途端、俺の視界はまばゆい白に塗りつぶされる。
「まこちゃんっ!?」
「うわっ!?」
重力に導かれるまま、体がフローリングへ逆戻りする。ドスン! 鈍い音に遅れて、俺の鼻を甘い香りがくすぐった。だけでなく、顔周りがやわらかな感触に包まれる。あ、これ……落ち着く……。この感触って、もしかして、おっぱ……。
「って、まてまてまてまて!」
妄想の中で咲き誇る花畑ギリギリでUターンして、俺は突然の訪問者を無理やりに引っぺがす。ゆるやかに波うつベージュの髪が俺の肌をくすぐりながら遠のいた。白いニットのワンピースに身を包んだ女性は、俺の腹にまたがったまま、穏やかな垂れ目にいっぱいの涙をためて笑う。
「まこちゃん、ほんまに生きててよかったわぁ……」
「……みく、姉?」
見覚えのある女性と馴染みのある関西訛り。俺の口から自然と名前がこぼれ出た。
最後に会ったのはたしか母さんと父さんが離婚したあとだから、もう七年近く前になる。それでも、彼女は変わらず美しかった。名前を呼ばれた彼女、いとこの才賀未空は再び俺を抱きしめて
「そうやよ! わたし、未空。わたしが来たから。もう大丈夫やから。ね!」
顔を見ずとも泣いているのだとわかるくらい、俺の耳元でグスグスと鼻をすすった。
キッチンから生活音がするのはいつぶりだろう。嫌でも鼻が味噌の匂いに反応し、つられて腹が音を立てた。キッチンでネギを刻んでいたみく姉が肩を揺らして笑う。恥ずかしさを追い払うように、みく姉が入れてくれた熱いお茶に口をつけると、久々に生きた心地がした。意識せずとも、深い息が漏れる。
「……お母さんのこと、大変やったね」
みく姉は味噌汁をかき混ぜながら呟く。どんな顔をしているのかは見えないけれど、声色を視れば想像はついた。海の色だ。母さんが最後に告げた嘘と同じ悲しみの色。
「べ、別に……! むしろ、高校生でひとり暮らしできるとかラッキー、的な!?」
言ってから、後悔した。振り返ったみく姉の顔が露骨な悲哀をたたえていたからだ。
なぜ、俺は他人を前にすると取り繕ってしまうのだろう。ヘラヘラと笑みを浮かべてしまうのだろう。泣いたって、怒ったって、いいはずなのに。
答えのでないまま、俺はすごすごと笑みを引っこめる。みく姉の澄んだ瞳に見つめられることに耐えられなかった。
「あ、えっと……みく姉は母さんがどこに行ったか、知らないの?」
明るく装いつつ、素直に母さんの所在を聞く。みく姉の強張った表情が少しやわらいだ。
「わたしも昨日、お母さんから、叔母さんがおらんくなったって聞いただけやから」
「そっか……」
マグカップを握る手に力がこもる。カップから熱がじんじんと指先に伝わって、ほんの少し痛い。並々注がれた緑茶の水面に意識を集中していると、俺の前にそっと味噌汁椀が差し出された。白味噌をベースに、ゴロゴロとした野菜がたっぷりと入った味噌汁は、母さんが作ってくれるものと同じだった。
みく姉は俺の前――つい先日までは母が座っていた椅子に座る。
「さ、ぎょうさん食べて。話はそのあとにしよ」
優しい笑みを向けられ、俺は味噌汁に口をつける。熱い。でも、うまい。母さんの味噌汁とよく似てる。熱い。でも……。涙をこらえて必死にかきこむ。気づけばあっという間になくなって、俺はおかわりをもらう。みく姉は静かに、味噌汁をよそった。
ほろほろと溶けるようなジャガイモを咀嚼して、俺は箸を置く。手を合わせて、ごちそうさま、と言いかけたところで、耐えていた涙が突如こぼれた。
「っ……」
みく姉に気づかれないように顔を伏せたのに、肩が震えて情けない嗚咽が漏れた。
俺の頭に、あたたかな手の感触が伝わる。
「なあ、まこちゃん」
みく姉の手が頭から肩へ移動して、そのまま俺はみく姉の胸元へ抱かれる。みく姉の鼓動が聞こえ、羞恥よりも安心感が勝った。みく姉はそっと俺の背を撫でる。子供をあやすみたいな仕草でさえ、今は心地がよかった。
俺がゆっくりと顔をあげると、みく姉の落ち着いたブラウンの瞳と視線が交わる。
親戚だからだろうか。彼女の目は、母さんの目に少し似ていた。
「お母さんが見つかるまで、一緒に住まへん?」
暗闇で迷子になっていた俺の前に、ひと筋の光が差しこんだ気がした。




