2-26.パンドラの箱
鈴に事務所と家への送迎がついて二週間。ストーカー事件はなりを潜め、俺たちアパートの住人につかの間の安息が訪れた。
街はすっかりバレンタインムードに染まっている。人々は愛を語りあい、やがて訪れる春の気配を喜んでいる。つまり、憂いのない幸せな日々……そのはずなのだが。
俺はひとり、鬱屈とした気持ちにさいなまれていた。
原因は目の前の進路希望調査票。本来ならば昨日提出しなければならなかったものだ。
「いいか、これが高校二年生最後の進路希望なんだぞ」
生徒指導の先生はそう言った。だが、それだけの理由で空欄を埋められれば苦労しない。先生に呆れられつつ、なんとか頼みこんで今日一日猶予をいただいたわけだが、結局、たった一日悩んだところで進路が思い浮かぶわけでもない。
「どうすっかなぁ」
椅子にもたれかかれば、ぎしりと椅子が軋む。キィキィと高い金属音が鳴るだけで、むなしさは増すばかりだ。
母さんが失踪した十一月から、アパートに越してきて早四か月。みく姉はもちろん、みゃーこも硝子さんも俺によくしてくれているし、最近は鈴でさえ、当初のとげとげしさを感じない程度の付き合いになっている。両親を失ったものの、俺はそれなりに充足した毎日を送っているというわけだ。バイトもしているが、ありがたいことにみく姉から援助してもらっているおかげで苦労もない。なんなら、母さんと二人暮らしをしていたときよりも楽な暮らし。
だけど。
母がいたころには簡単に埋めていたはずの進路すら、今は埋められない。
あのころは未来に不安なんてなくて、ただ漠然と、みんなと同じように進学できればそれでいいと思っていた。もちろん、母さんに苦労をかけたくはなかったから、金のかからない国公立で、とは思っていたけれど、それ以上のことはほとんど考えていなかった。あるとすれば、文系か理系か、という選択くらいで、それも就職を楽にしたいから理系かな、なんてそんな程度である。
それが、母の失踪により、未来に確実なものなんてないとわかってしまった。なにより、俺は、俺自身を信じられなくなっている。なにもかも失ったその一端は自分にある。そんな状況で、自分だけ自由と幸せを手に入れているのだ。なんの苦労もなく。
そんな俺に、未来を選ぶ権利があっていいのだろうか。
「……いやいや、今はそんなこと考えてる場合じゃなくて」
なんでもいいから適当に埋めればいい。わかっている。俺は自らに言い聞かせる。
声に色が視え、相手の感情を察知できる。この才能は不幸の種だ。俺にとっては必要のない力。それに頼る生きかたは嫌だった。
もちろん、母さんが出て行ったことと俺の能力は関係がない。それもわかっている。自由に生きてねと言った母は、ただ自分が自由になりたかっただけ。俺のせいじゃない。でも。それじゃあ、どうして、母からの連絡が一度もないのだろう。捜索願もみく姉が届け出てくれたはずだけど、警察からも一向に連絡がない。それは、もしかして母自身が、俺のことを……。
俺は奈落へと落ちていこうとしている自分に気づいて、強く頬をつねった。やめろ。バカ。すぐそっちに行くんじゃない。楽なほうに逃げているだけだ。
俺はカチカチとシャーペンをノックする。目の前の進路希望調査票に焦点を合わせる。適当な進路でもなんでもいい。なんなら、もはや進学する必要もない。みゃーこみたいな生きかただってあるわけだし、高卒で働くことだってできる。現に、鈴はアイドルで稼いでいるじゃないか。
「ん?」
ふと、みく姉は結局どうやって金を稼いでいるのだろうと考えが脳裏によぎった。
二十八の若さでアパートを買い、大家としての家賃収入は得ているのだろう。しかし、その家賃だって大した金額ではない。俺が払っているわけではないが、みゃーこが「フリーターのうちでも払えるんだよ?」とあっけらかんと言っていたのを思い出す。
そもそも、みく姉は二十八になるより前に、このアパートを購入できるだけの金を所持していたということになる。祖父母にある京都の家はそれなりに大きな屋敷だったし、みく姉の実家も大きい家だったような気がするけれど、上京した娘に丸々一棟アパートを買いあげてやるほどの資産家には見えなかった。
でも、みく姉が出勤しているところを見たことがない。それなのに、俺を養って余りある生活をしているようにすら見える。
「動画配信とか? んー、でもなあ、そんな感じにも見えないんだよな」
みく姉の部屋は掃除が行き届いているけど、それは誰かに見せるため、というよりもただみく姉が好きでそうしているようだし、そもそも、みく姉自体がそうした動画配信というものに疎そうだ。動画は見るし、スマホもPCも人並みに使いこなしてはいそうだけど、自らなにかを発信するようなタイプではない。
「ま、でもわかんないもんな」
みく姉の職業を知ったところで、俺の進路希望調査票が埋まるわけでもないし。
俺がうーんと背伸びすると、ピンポン、と来客を告げるチャイムが鳴った。
「はーい」
玄関に向かい、のぞき窓を見る。と、そこにはみく姉が立っていた。今まさにみく姉のことを考えていたせいで、妙にドキリとする。みく姉は時々、俺の食生活を心配してか、料理を持ってきてくれたり、実家から届いたというお菓子やらを分けてくれたりするので、訪問自体は珍しいことではないが。
扉を開けると、みく姉は「お届けもので~す」と俺に段ボールを差し出した。
「あれ、またなんか届いたの?」
「うん。ちょっと早いけどバレンタインデー」
「え、みく姉からってこと?」
「ふふ、残念ながらお母さんからやよ」
どうやらみく姉の母が、みく姉に向けて送ってきたらしい。俺は少し恥ずかしくなって、それを隠すようにそそくさと段ボールを受け取る。
「いつもおすそわけありがと」
俺は段ボールを置いて、「あ」とみく姉に向き直った。
みく姉に、進路相談をしてみようか。ちょうど仕事の話も聞きたかったし。うん、悪くない案だ。
「どうしたん?」
「あのさ、ちょっと教えてほしいことがあって」
「うん、なんでもどうぞ」
みく姉は助けることがあたりまえだとにこやかにうなずいた。
「あ、寒いから、中入って。お茶しかないけど」
俺はみく姉を招きいれ、お茶とともに、進路希望調査票を彼女の前に差し出した。
「あれ、真っ白やん」
みく姉は驚いた、というよりも、どこかからかうような口調で白紙を見つめる。やわらかな声色は、心配よりも自分もそんな時期があったと懐かしむような感情に似ていた。
「なんか、迷ってるっつーか……、うまく、イメージできなくて」
俺は素直に気持ちを打ち明ける。母が失踪してからのこと。自分の未来が描けないこと。だから、進路を迷っていること。
みく姉はそれを黙って聞いた。ときどき、わかるわぁ、と穏やかに相槌を打ちながら。
「でさ、気になってたことがあるんだけど」
俺はついでに、とみく姉を見る。
「みく姉ってさ、なんの仕事してるの?」
尋ねると、みく姉はそれまでの柔和な態度を一変させ、困ったような、どう答えるべきか迷うような、そんな顔をして見せた。
ヒミツ。その言葉が頭をよぎる。
多分、それは俺が予期せずして開けてしまったパンドラの箱だった。




