2-22.忠告したからな
昼休みの教室がざわめいたのは、鈴のストーカー騒ぎから一週間が経ったころだった。
「おい! お前なにやったんだよ!」
教室の隅、ストーブのぬくもりにうとうとしていた俺の体を、友人のひとりが興奮したように叩いた。
「いてっ」
「塩野さんが来てんのに寝てんなよ! 失礼だろうが!」
「塩野?」
とろとろと夢心地でその名を復唱する。塩野、塩野……。女子からの疑念に満ちた視線と、男子からの驚きや好奇心、嫉妬に満ちた視線のふたつを受けつつ、ほら、と急かされたほうへ体を向ける。
教室の入り口には鈴が立っていた。
ああ、そうか。塩野は鈴の名字だったか。
鈴の整った顔はしかめられ、不愉快極まりないと主張している。これ以上待たせるとどうなるかわかったもんではない。
俺はストーブのぬくもりを惜しみながら手放して、入り口へ向かう。
「どした」
変な噂が……、特に俺との噂を流布されることをこれでもかと嫌うはずの鈴が、わざわざ昼休みに俺を尋ねてくるなんて。動物園のチケットを渡されたときは事前に連絡があったよな。しかも、ひとけのない中庭にまで呼び出された。それがなぜ。
考えて、俺はもしかして、と眉をひそめた。
「……また、ストーカー?」
俺がささやくと、鈴は胸元で握りしめていたスマホをさらに強く両手で握った。唇を噛みしめ、口を真一文字にしてみせる。頑なな態度に似合わず、瞳だけはゆらゆらと不安げに揺れていた。
「まじか」
俺は教室を出て扉を閉める。それだけで、教室の中がいっそう色めきだったが、今はかまってなどいられない。幸いにも、すりガラスのはまった窓は冬の寒風を少しでも遮ろうと閉じられているし、ストーブに近い後方の扉も防寒のためか閉められている。俺のクラスは廊下の突きあたりにあり、後ろの扉を開けて誰かが出てこないかぎりは人が来ることもない。
ああ、でも。扉の向こうでニヤニヤと聞き耳を立てているであろうクラスメイトの姿が想像できて、俺はわざと壁寄りに移動した。鈴も察したのか、呆れたようにドアを一瞥すると、その場を離れて柱にもたれかかる。俺が鈴を隠すように立つと、鈴はようやく肩をさげた。
俺は早まる気持ちを抑え、できるだけ冷静になるよう自らに言い聞かせる。
今は、鈴のほうが不安なはずだ。
「なにがあった?」
尋ねれば、鈴は握りしめていた両手をそっとほどいて、俺にスマホを差し出す。みく姉とのトーク画面が表示されていた。みく姉から送られてきた画像をタップする。と、ドラマで見るような脅迫状めいた手紙の内容がでかでかと画面いっぱいに広がった。
『あの男に近づくな』
コピー紙に印刷された白黒の文字が、俺には極彩色となって迫った。鮮烈な内容がより衝撃を与えてくる。
「うわっ!?」
驚きで鈴のスマホを落としそうになる。俺でさえこれほど動揺してしまうのだから、鈴はどれほどのものだっただろう。
「……みくちゃんが、見つけたって」
「みく姉が? ってことは、アパートに落ちてたってことか?」
「アタシの、部屋のドアに挟まってたみたい」
アパートを掃除していたみく姉が偶然それを見つけ、不審に思って紙を抜き取った。開いてみたら、これが出てきたのだ。鈴はそう説明して、震える指先でスマホの画面を閉じる。鈴の口から漏れたため息は疲弊していた。
「みくちゃんが警察に届け出てくれて。ようやく、警察も巡回とかしてくれるって話になったらしいけど」
鈴はボソボソとつけ加えつつ、窓に顔をよせた。悩ましげに校庭を見つめる姿は、まるで深窓の令嬢だ。顔がいいのも面倒だな、と俺はそんな鈴を見て思う。
アイドルという職業である以上、こうしたことが一生付きまとってしまうのだろうか。彼女の幸せは、そうした不幸をしかたないと許容したうえにしか成り立たないのかもしれないと思うとやるせない。
鈴はしばらく焦点の定まらない目で外を眺めて、ぽつりとこぼす。
「この、男ってのが、あんたなんじゃないかと思って」
「……は?」
突然のことにいまいち思考が繋がらなかった。ポカンと口を開けている俺を、鈴がじれた様子で「だから」と睨む。
「手紙に書いてあったでしょ。あの男に近づくな、って、あんたのことなんじゃないかって」
「いや、なんで」
「こっちが聞きたいわよ。なんであんたとの仲なんか疑われなきゃいけないの」
「それは言い過ぎじゃね?」
「は? あんた、アタシと釣り合うと思ってんの? どこからどう見ても、月とスッポンじゃない」
「スッポンはスッポンでも、俺はイケメンなスッポンですぅ」
「イケメンなスッポンなんかこの世にいないから!」
「いるだろ! スッポンに謝れよ!」
「なにそれ! うざ!」
鈴の声が廊下に響き、居合わせた隣のクラスのやつがぎょっとした顔でこちらを見つめる。俺も鈴も今いる場所を認識して、さっと声のトーンを落とした。
「……とにかく、アタシは忠告したから」
「いや、忠告って」
言いかけて、おや、と俺は口をつぐむ。もしや、鈴は俺のことを心配して、わざわざこのことを教えにきてくれたのか? 事前の連絡も忘れるくらい焦って? 自分のほうがストーカーの被害者で、心底怖かっただろうに。
「……鈴って、いいやつだな」
「はっ、はぁ!?」
用は済んだと俺の横を通り過ぎようとしていた鈴の頬がカッと赤くなる。
「べ、別にそんなんじゃないし!」
鈴はフイと顔を背けた。彼女のトレードマークになりつつあるツインテールが揺れ、隙間から赤く染まった耳が見えた。多分、ピンクメッシュの髪ではないだろう。
俺はそんな鈴の強がりに笑みが漏れる。
「お前こそ、無理すんなよ」
頼ってくれとは言わない。多分、鈴はそういうのが得意じゃない。きっと、努力や強がりで今まで武装して生きてきただろうから。ましてや、男に甘えるなんて……いや、特に、俺になんて絶対に無理だろう。でも。
「忠告したからな」
俺が鈴に向かってビシリと指をさすと、鈴は「うるさい」と呟いて廊下を駆けていった。小声だったが、彼女の声にはちゃんと、喜びが混ざっていた。
俺は鈴の背中を見送って、さて、と背筋を伸ばす。彼女にああは言ったものの、これからどうすべきか。俺はあのアパートで唯一の男なのだ。相手のストーカーが男ならば、対等に戦えるのは俺だけだろう。そんな俺が怖がっていてはいけない気がした。
今回は警察も動いてくれている。だが、アパートの中にまで入りこまれたら終わりだ。
しっかりしろ、俺。
俺は自らの頬を強くたたいて、気合を入れなおした。




