2-21.つけられてる、と思う
鈴は餌を欲しがる鯉のようにパクパクと口を開いたり、閉じたりしていた。普段は不愛想な鈴が、俺にそんな腑抜けた顔をするなんて珍しい。そう思ったが、どうやらそれは俺に対してだけではないらしい。鈴の隣にいた硝子さんも、突然の鈴の挙動に疑問を抱いたようだった。
しばらくして、鈴はようやく感情に整理がついたのか、俺と硝子さんを交互に見た。迷ったすえ、鈴は俺の服の裾を引く。
「ちょっと来て」
硝子さんを置いて、鈴が大股で歩き出す。当然、裾を引かれたままの俺も従うほかない。連行されるがままに足を動かすと、数メートル離れたところでピタリと鈴の足が止まった。
「なんだよ」
鈴の冷ややかな目が俺を貫く。
「硝子さんには聞かれたくないの。それくらい察してよね」
「はぁ?」
「……あんたのこと、案外敏いって思ったアタシがバカみたい」
「おいおい、その言いかたじゃあ、俺の察しが悪いみたいだろ」
「そう言ってんのよ」
鈴はじとりと俺を睨みつけ、ため息をついた。かと思うと、鈴はいらだたしげに硝子さんの後ろへと視線を投げかけた。つられて見るも、特になにかあるわけではない。俺たちをキョトンと見つめる硝子さんが立っているだけだ。
「だから、なんなんだよ」
鈴の言いたいことがわからずモヤモヤする。不満をそのまま口に出せば、鈴がたじろいだ。
あ、また泣きそうな顔。
「どうしたんだよ」
俺の問いに鈴はうつむいた。裾を掴む彼女の指先に力がこもる。
「多分、だけど」
鈴が言いよどむところを見るのは初めてだった。これでもかと切れ味のよい彼女の口調がここまで濁るとは。よっぽど言いにくいことらしい。
俺は姿勢を正して、彼女の言葉を待つ。
「……つけられてる、と思う」
「え」
「ストーカー」
ためらいがちに鈴の口から飛び出たその事実は、俺からも言葉を奪った。
鈴はいっそう声のトーンを落とし、硝子さんのほうを気にしながら続ける。
「前から、何度かあったの」
「まじかよ」
「こんなことで嘘つかないわよ」
鈴の口調が少しだけいつもの調子に戻った。だが、声色はやはり暗いままだ。
「警察にも行ったし、事務所にも連絡した、けど……、実害がないから動けないって言われて」
「まじか。今もつけられてるってことか?」
「多分。いつからかはわかんない。けど、駅出て、なんか嫌な感じがして」
「もっと早く言えよ」
「そんなの……」
鈴がぐっと押し黙る。沈痛な面持ちを見て、俺は今のは失言だったと気づいた。
ストーカーされてるかも、なんて、思っていても言えるだろうか。しかも、俺はともかく、硝子さんに言えば、心配どころか硝子さんにも迷惑をかけてしまうかもしれない。恐怖を与えてしまうかもしれないのだ。
だから、鈴はずっと強がって、なにもないフリをしていたのか。この話をするときだって、わざわざ硝子さんから離れて。
「悪い」
俺が謝ると、鈴は静かに頭を横に振った。黒髪に混ざったピンクメッシュが揺れる。底なしに明るいその色が、今はむしろ白々しい。
「硝子さんには、迷惑かけたくないの」
「……わかった」
アパートまではあと五分ほどだ。ストーカーは鈴を狙っているはずだから、ここで別れれば硝子さんに被害が及ぶとは考えにくい。なんなら、みゃーこかみく姉に連絡して、硝子さんを迎えに来てもらう手もある。
家はすでに特定されているかもしれないが、できるだけ鈴をひとりにしないほうがいいだろう。
人通りの多いところで、ストーカーが諦めて帰るのを待つのが現時点での最善手に思えた。
「うし。じゃ、晩飯でも食いに行くか」
あえて明るい声を出せば、鈴が俺の言わんとすることを察したようにコクリとうなずく。服の裾を握っていた手を離し、鈴は顔をあげた。その顔には少しだけ安堵が宿っていた。
俺はストーカーがいるであろう硝子さんの後方にも聞こえるように、わざと大きな声で硝子さんを呼ぶ。
「あの! 腹減ったなって話してたんすけど、硝子さんもどうすか?」
硝子さんは純真無垢に俺と鈴が晩ご飯の相談をしていたのだろう、と納得したらしい。「いいね」とかすかな笑みをたたえてこちらへ歩いてくる。
「どこがいいかなって、話してたんです。硝子さん、食べたいものありますか?」
駅でのへたくそな演技を払拭するように、鈴が自然な笑みを浮かべる。声色こそ不自然だが、俺のような人間はそう多くないし、相手が一般人なら容易にごまかせるだろう。
「パスタかな」
「あ! それじゃあ、いつものお店、行きません?」
「いつもの店?」
俺が尋ねると、鈴がこの先の、と指をさす。硝子さんも、ピザ屋だよ、と補足した。ふたりの話から、先日俺がみく姉におつかいを頼まれたピザ屋だとわかる。ピザだけかと思っていたが、パスタやタコス、そのほかちょっとしたおつまみなんかもあるらしかった。
たしかにあの店であれば、見た目だけは男の店長もいるし、みゃーこやみく姉も集まりやすいかもしれない。
ナイス、鈴。俺が鈴にだけ見えるようにサムズアップすると、鈴は少しだけ照れたようにフンと鼻を鳴らした。わかりやすいやつめ。
「みく姉とみゃーこも呼びますか」
「そうだね、せっかくだし」
俺の提案に疑問も持たず、硝子さんが早速スマホを操作する。硝子さんは手慣れた様子で、アパートの住人が登録されているチャットグループでふたりを呼び出した。こうした急な晩ご飯のお誘いも、俺が来る前からあたりまえのように何度もあったのだろう。それこそ家族のような関係だ。
ほほえましいと思う反面、そんな関係性のみんなにすら、鈴はストーカーのことを打ち明けていないのだ、と気づいて胸がチクリと痛む。
みく姉はストーカー被害について知っていたようだが、それも過去のことのように話していた気がする。
女性同士だとかえって遠慮してしまうこともあるのだろう。特に、鈴のようなタイプは。
そんなことを考えていたせいか、無意識に足を止めていたらしい。
「なにぼーっとしてんのよ」
鈴が俺を呼ぶ。ほんの少しだが、いつもの口調と声色に戻っていた。
「なんでもない」
俺はすっかり暗くなった背後を一度だけ振り返り、鈴を守ろう、と決意を胸に足を踏み出した。




