2-19.呼んでくれないの?
俺と桐島さんは、閉園のアナウンスとともに動物園を出る。たくさんの人たちの笑顔を横目に、俺たちも帰路についていた。
「これ、あげる」
桐島さんが思いだしたようにスケッチブックを取り出す。
今日一日で、これでもかとたくさんの動物たちを描いた。その思い出が、アルバムのように詰まっているしろものだ。
「いいんですか?」
「うん。代わりに、真琴くんのをちょうだい」
「えっ!」
へたですよ、と言いかけた俺の声を遮るように、桐島さんが「ほら」と俺に手を差し出した。どうやら俺に拒否権はないらしい。
しかたなくスケッチブックを渡すと、桐島さんは早速それをペラペラとめくる。
「うん、いいね」
淡々とした表情からは、本心か、お世辞か読み取れない。声色を視るに、本心らしく、それが逆にくすぐったくて居心地が悪い。
「俺には、俺のよさがわからないんですけど……その、具体的に、どこが?」
自慢ではないが、中学のときの美術の成績表は10段階評価で5とか6だった。悪くはないのだろうが、別にうまくもない。そんなところだ。
それがどうして、美大でもっとうまい絵をたくさん見ている桐島さんのおめがねに叶うのか見当もつかない。
俺が訝しんでいると、桐島さんは俺の描いたオカピを指でなぞる。
「絵を見れば、真琴くんが誠実な人だってわかるよ。一生懸命、真面目に取り組んだって伝わる。そういう絵は好き」
桐島さんは真顔で言うと、大事そうにスケッチブックを閉じて、カバンへとしまいこんだ。
「真面目……」
みく姉にも言われたような気がする、と俺は苦笑する。高校のクラスメイトや先生が聞いたらきっとびっくりするだろう。俺ほど不真面目な生徒もそういない、とからかわれるかもしれない。
どうしてか、みく姉たちといると、可哀想だと思われたくなくて取り繕っていた自分が薄っぺらく感じる。明るい自分を『本当の自分』だと思いこんでいただけなのだと気づかされることもある。照れくさいような、嬉しいような、歯が浮くような気分だ。
俺は照れ隠しに桐島さんのスケッチブックを開いて、視線を落とした。顔が赤くなっている気がして、開いたページで頬を隠す。
ページの中では、桐島さんが描いたミーアキャットが堂々と胸を張っていた。
「やっぱ、写真みたいにうまいっすね」
「カメラアイだからね」
「ほんと、ギフトになってよかったです」
もしも、桐島さんが自分の意志で家を飛び出さなければ、きっとこの絵は拝めなかった。
いや、それどころか、彼女とは出会ってなかっただろうな、と思う。
「今度は桐島さんのオリジナルの絵も見たいです」
素直に言うと、彼女は「恥ずかしいからやだ」とさっきまでとは打って変わってそっぽを向いた。本当に恥ずかしいのだろうか。
「なんでっすか」
「模写するのは得意だけど、オリジナルはまだまだだから」
「はあ」
絵のことはよくわからないが、そういうものなのだろう。独創性や発想は、桐島さんの目下の課題らしい。彼女は美術の奥深さを、愚痴を交えつつ俺に語った。
「でも、いつか、いい作品を描くから」
決意に満ちた桐島さんの横顔は凛としていて美しかった。
「桐島さんなら、きっとできると思います」
お世辞ではなく、心からそう思うし、そうなりますように、と願う。
俺が笑いかけると、桐島さんは少し考えるように視線を宙にさまよわせた。なにかを言いたげに一度口を開いて、けれど言葉にならなかったのかまた口を閉じる。そんなことを何度か繰り返し、やがて
「硝子」
と小さな声で自らの名前を空中へはきだした。
「はあ」
一体どうしたというのだろう。俺の口から間抜けな声が漏れる。と、桐島さんは考えの読めない表情で俺を凝視した。
「名前」
「はい」
「呼んでくれないの?」
今度こそ、彼女の淡い色をたたえた瞳と視線が交わる。
「え」
「私だけ、名字呼び」
声色に不満が混じったのがわかって、俺はようやく彼女の言いたいことを理解した。
理解したうえで、
「えっ!」
とすっとんきょうな声が出る。
だって、まさか桐島さんから、名前を呼んでもいいと言われるとは思っていなかった。たしかに今日は一日楽しかったし、桐島さんもなんだかんだ楽しんでくれた。ヒミツを打ち明けてくれて、家族とまで言ってくれて。それだけで充分だったのに。
桐島さんなりに、俺自身を受け入れてくれているのだとわかって驚く。
俺はまだ、なにも返せていないのに。
「……嫌なの?」
「いや、嫌とかじゃないです、けど……」
いいんすか、と尋ねた俺の声は緊張で掠れていた。クールで、ミステリアスで、ダウナーな桐島さんを名前で呼ぶことは、みゃーこや鈴以上にためらわれる。勢いとかノリとか、そんなものが通じない関係のような気がして。
いや、だが、ここで断るほうが変だ。せっかくの申し出を拒否する意味もないし、なんならむしろ、ぜひ呼ばせていただきます! と頭を地面にこすりつけてもいいくらいなのである。
俺は深呼吸して心拍を整え、男としての覚悟を決める。
「……硝子、さん」
チラと彼女の様子を窺うと、桐島さんあらため、硝子さんは嬉しそうな顔をした。わずかな時間だったから、もしかしたら幻覚かもしれないけれど。
「うん」
硝子さんはうなずいて、俺から顔を隠すように歩き出す。風が彼女の髪をさらう。その隙間に見えた耳がほんのりと赤く染まっているように見えた。もしかしたら、これも幻覚かもしれない。
俺は思わず緩んでしまう頬をパチパチとたたいて、
「これからもよろしくお願いします!」
と硝子さんの背中に向かって挨拶する。振り返った硝子さんの口元には、何度見ても美しいかすかな笑みがあった。
「こちらこそ」
硝子さんの背中に夕日が差している。陽に透けた彼女のアッシュグレーの髪がやわらかに輝いた。




