2-18.鳥かごの鳥
桐島さんは、スケッチブックを静かに閉じると「行こっか」と立ちあがった。
「ギフトが、目って……」
「カメラアイなの」
なんでもないように言いつつ、桐島さんはシャッターを切るみたいにゆっくりとまばたきをしてみせる。
「カメラアイって」
俺が尋ねると、桐島さんは俺が手にしていたスマホを指さす。
「そのままだよ」
「カメラみたいな目、ってことすか?」
「うん。一瞬で、すべてを記憶する」
「瞬間記憶、みたいな」
自分の知っている言葉になんとか置きかえながら、前を歩く桐島さんに置いていかれないように足を動かす。人ごみで桐島さんを見失ったら、俺は彼女を見つけられないかもしれない。そんなことはありえないのに、なぜかそんな気がして怖かった。
サバンナに住む動物たちのコーナーを過ぎると、森のように木々が生い茂るエリアに入る。フクロウが静かに木陰で羽を休め、オウムやインコが頭上を飛んでいた。
桐島さんはそれらを眩しそうに見つめた。この瞬間にも、桐島さんは俺には信じられない量の情報を受け取り、記憶しているのだろうか。カメラみたいに。
その姿からは、自らが持つギフトを、どこまでも大切に扱っているようにも感じられた。
「神さまが私にくれた、最初で最後のギフトなんだ」
桐島さんは、鮮やかな羽を広げて空を横切る鳥たちを眺めて呟く。猫が蝶を追いかけるような仕草だが、その横顔はあまりにも儚い。
「子どものころから、天才だってもてはやされた」
一度見たものをすべて記憶できてしまう子どもがいれば、周囲がそうもてはやすのは当然だろうと思えた。特に、自分の言葉で説明もできないようなうちから、その能力が開花するのだ。騒ぎ立てられるのは宿命ともいえる。
俺にしたって、声から相手の嘘や機嫌を察知できてしまったせいで、小さいのにしっかりしているだとか、大人びているなんて、ちやほやされたくらいなのだから。
桐島さんは、枝葉の間を羽ばたく小鳥を、どこか憐れむような目で見つめた。
「私は、鳥かごの鳥だった」
彼女は止めていた足を動かして、俺に背を向ける。
「気づいたら、両親のお飾りになってて。どこへも行けなかった。両親が敷いた線路の上を歩くことしか許されなくなってた」
「そんな……」
俺の父親は、俺の才能を恐ろしいものだと手放した。だが、桐島さんの両親はその逆。彼女を寵愛したのだろう。
どちらが子どもにとって幸せか、なんて、考えたくもない。
俺が言葉を詰まらせると、桐島さんは鳥たちの住むエリアをひと足先に抜けて、俺のほうへと振り返る。
桐島さんは、いたずらな笑みを浮かべた。
「だから、家出したんだ」
「え」
もの静かな桐島さんからは考えられない言葉が飛び出して、俺は目を見張る。桐島さんの顔は清々しかった。
「みくさんに拾ってもらった」
「まじ、すか」
「うん。だから、みくさんに恩がある。みくさんのおかげで、今があるから」
森を抜けると、真っ白な世界が一面に広がった。まるで白紙のキャンバスのようだ。壁一面を白く塗り、雪や氷をかたどったオブジェに覆われたそのエリアは、ペンギンやホッキョクグマといった寒い地域に住む生きものたちがいるらしい。
桐島さんは再びスケッチブックを取り出すと、ホッキョクグマを見るために設置されたベンチに腰かけて、鉛筆を手にする。素朴な目でこちらを見つめるホッキョクグマを気に入ったようだ。
「なんで、そんな話、俺に……」
唖然とする俺を、桐島さんが手招きする。促されるまま俺が隣に座ると、桐島さんはスケッチブックの新しいページに線を引きながら笑った。
「家族だから、かな。隠しごとはなしにしたいの」
強い意思のこもった声だった。
あっけにとられて彼女を見るも、桐島さんの髪が横顔を隠している。ただ、桐島さんは真剣に紙と向き合っていた。
みく姉の家族という言葉は、言葉のあやなんかではなく、本当にそういう意味だったんだ。そしてそれは、アパートに住む人たちみんなに共有されている価値観らしい。
俺が感動とも、感銘ともつかない妙な気持ちに包まれていると、桐島さんが再び口を開く。
「美大はね、みくさんに出会えたから、自分で選べた」
さざ波のように静かな声の内側に、みく姉への尊敬や感謝がこもっていることは色を視なくてもわかった。
みく姉は昔から、困っている人がいたら放っておけない性格だった。なんなら、本当に困る前に救いだす。ヒーローみたいな人だった。俺だって、何度も助けてもらった。父親がいなくなってからも、母親が、出ていったあのときも。
だから、桐島さんの気持ちはわかるような気がする。
俺が小さくうなずくと、桐島さんはそれを相槌ととったらしい。
「だから、私は、みくさんの家族の真琴くんも、家族だと思うよ」
桐島さんはホッキョクグマの顔を描きこみながら、ホッキョクグマってかわいいね、と言うのと同じ温度で呟いた。
その言葉が、どれだけ俺を救うかも知らずに。
桐島さんは俺からの返答がないことを気にも止めず、手を動かし続ける。体を、足を、描いていく。迷いのない線で。見たままに紙へと落としこんでいく。
「私はずっとこの能力を恨んでたけど、美大に入ったらギフトになった」
やがて、鉛筆のこすれる音がやんだ。彼女の手の中に、一匹のホッキョクグマが生まれる。その瞳は純朴で、裏表のないまっさらな世界を映しているように見えた。
「真琴くんも、困ったことがあったら言ってね。力になるから」
まるで、俺の抱えているヒミツを知っているとでも言うように、桐島さんが表情をやわらげる。変化の乏しい瞳がそっと三日月に形を変え、口元にはささやかな円弧が浮かぶ。
みゃーこも、桐島さんも、ずるい。
俺は、こんな力なんて、こんなヒミツなんて、こんな俺なんて、いらないと思って生きてきたのに。
それを必死に隠して、取り繕って、嘘の笑顔を浮かべてきたのに。
彼女たちは、ヒミツを打ち明け、本心で笑い、素直に家族として俺を受け入れてくれているのだ。
そういうことができる人たちなんだ。
みんな、ずるい。
俺はあふれでそうになった気持ちをぐっと喉奥に溜め、腹の底へと押しとどめる。
「ありがとうございます」
精一杯の強がりを隠して、へらりと笑った。
自分のヒミツを、過去を、語れない俺は。そんな俺は、まだ、彼女たちの家族にはなれない。




