2-17.神さまからのギフト
メインゲートを抜けて最初に現れたのは、ゾウやライオン、トラといったサバンナの動物たちだった。いきなり動物園らしさ全開のエリアに、俺は思わず歓声をあげる。そっと桐島さんを盗み見れば、表情のわかりにくい彼女も目を輝かせていた。
「すごい」
「でかいっすね」
ゾウを見あげ、ふたりで感嘆の息をつく。
すぐそばで、ライオンやトラが広いエリアを悠々と歩き回っており、早速桐島さんはスケッチブックを取り出す。
「描いてみる?」
「え、もうっすか?」
「うん。ライオン、かわいいから」
桐島さんはどうやらライオンを気に入ったらしく、早速道端のベンチに腰かけると鉛筆を取り出して線をはしらせた。
「動いてるところを描くのが難しかったら、写真に撮るといいよ」
桐島さんのアドバイスに従い、俺は数枚写真を撮る。そのままスマホを桐島さんに向けると、彼女はすっかりスケッチブックに目を落としていた。気づかれないよう、そっと一枚、桐島さんを写真におさめる。
桐島さんの隣に腰かけ、渡されたスケッチブックを開く。真新しいそれは、どうやら俺のために準備してくれたらしかった。
まずは自分なりに描いてみるべし。桐島さんのその指示に従って、先ほど撮った写真の画像を並べつつ、鉛筆を動かしてみる。
「……ん~」
思ったような線にならない。壊滅的にへたというわけでもないが、やはり実際に描いてみると難しい。俺が渋っていると、桐島さんの鉛筆の音が止まった。
彼女の淡い瞳が俺のスケッチブックを捉える。
「大丈夫、じょうずだよ」
「ほんとっすか?」
「うん。少なくともライオンには見える」
「……ほめてます?」
聞き返すと、桐島さんはクスクスと肩を揺らした。
「冗談。本当にじょうずだよ」
穏やかな声は楽しさ一色に染まっている。どうやら嘘ではないらしい。
「桐島さんのも見たいっす」
気恥ずかしさをごまかすように、俺は彼女の手元を覗きこむ。
と、そこには、写真と見間違うほどの……いや、それこそまるで本物のようなライオンの姿があった。
圧倒的な画力と迫力に、俺は息を飲む。
ムダのない最低限の線で描かれているのに、わずかな光の反射まで正確に写し取ったような精緻さ。たとえ美大生だとしても、常人のそれとは明らかに一線を画しているのが素人目にもわかる。いや、俺は美大生のことも、それどころか美術のこともわからないけれど、とにかく、そんな俺にでも、これはただ絵がうまいだけではないと思わせる力が宿っているとわかった。
しかも、桐島さんは俺と違って、写真ではなく、目の前で動き続けているライオンを見続けていたはずだ。そのうえで、この絵を描いたのだ。
「……うま」
俺の称賛は、心からあふれた呟きに凝縮された。俺でなくても、百人が見たら、百人がそう言うであろう、嘘偽りのない本心だった。
彼女はそれを真正面から受け止めて、「ありがとう」と素直にほほえんだ。
桐島さんはそのまま視線を動き続けるライオンに向けたまま、スケッチブックに描かれたライオンを指でなぞる。愛でるような手つきは、本当にライオンのやわらかな毛に触れているようだった。
「これだけはね、私が唯一、私を誇れることなの」
桐島さんは絵以外にも誇るべきものがたくさんある人間に見えるけれど、本人にとってはそうではないらしい。俺はなんと言えばいいかわからなくて、ただ黙って桐島さんと一緒に悠然と座りこんだライオンを見つめた。
「……真琴くんはさ」
桐島さんがふいに俺の名を呼ぶ。俺はドキリとして背筋を正した。桐島さんのほうから聞こえていた指先と紙のこすれる音もいつの間にか止んでいる。
「神さまからのギフトって、存在すると思う?」
「ギフト」
「そう、ヒミツにしたくなるくらい……ううん、ヒミツにしないといけないくらい、特別な贈りもの」
俺と桐島さんの間に雪の気配が滲んだ風が吹き抜ける。
彼女のはいた白い息が澄んだ空へと運ばれ、言葉をなかったことにするかのようだった。
俺は、声が視える能力を、ギフトだと思ったことはない。
だが、もしも、桐島さんにもそんなヒミツがあるのだとしたら……。
俺も桐島さんを真似てゆっくりと息をはく。かじかんだ指先を握りこみ、抱きしめるようにあたためた。
「あると、いいなって思います」
いつか、俺も、桐島さんのように、自らの特別な才能をギフトだと思えるようになりたい。そう願うことくらいは、許されるのだろうか。
俺の答えに、桐島さんの口角がゆるりと持ちあがった。
「いい、答えだね」
桐島さんの体がほんの少し、俺のほうへと近づいた。ふわりと石鹸のような香りがする。
「私のギフトはね、この目なの」
丸メガネの奥に潜んだ彼女の美しい瞳には、俺だけではなく、世界のすべてが映っているような気がした。




