2-16.君と、一緒に描いてみたかった
土曜日はまたたく間にやってきた。
当日までの俺はと言えば、登校していようが、授業を受けていようが、なんならひとり部屋にいるときでさえも、どこかニヤニヤとだらしない顔をしていたように思う。現に、クラスメイトや先生だけでなく、鈴やみく姉にまで、それを指摘されてしまった。
だが、それも無理ない。
なぜなら、今日は……。
「ごめんね、待った?」
品のあるグレーのコートに、黒のスキニーというモードなファッションで現れた桐島さんが、はぁ、と白い息をはきだして俺の前で立ち止まった。その拍子で丸メガネが曇り、桐島さんはメガネを丁寧に拭く。
時間にはまだ余裕があるのに、先に到着していた俺を見つけて急いできてくれたのだろう。なんと健気な。
俺が「待ってません」とブンブン首を横に振ると、桐島さんはほんの少しだけ表情をやわらげて、
「じゃ、行こっか」
と俺を促した。
どうやら、桐島さんは本当になにも意識していないらしい。デートではない、とわかりきっている俺のほうが、結局あれやこれやと考えていただけのようだ。なぜ桐島さんがオーケーしてくれたのか、もしかして、と推察していた自分を穴に埋めてやりたい。
動物園の最寄り駅を背に、俺たちは歩き出す。
「すいません、忙しかったっすよね」
気を取り直して俺が声をかけると、今度は桐島さんが「ううん」とかぶりを振った。
「もともと、予定なかったんだけど……、急に、後輩から呼び出されて」
「後輩」
「サークルの」
「サークル」
ミステリアスな雰囲気のある桐島さんから、普通の大学生が使うような単語が飛び出てくることに違和感を覚え、オウム返ししてしまう。そのことに気づいたのか、桐島さんがかすかに口角をあげた。
「変?」
「あ、いや! 変とかじゃなくて、その……」
大人っぽく見えるから、というのも違う気がする。ただ、桐島さんからは俺のイメージする大学生……はっちゃけた、ウェイウェイしているような雰囲気が感じ取れないのだ。キャンパスライフをおくる彼女を想像できない、というのが正しいかもしれない。
俺が必死にそれを説明すると、桐島さんはパチパチとまばたきを繰り返した。
「そういう人もいるにはいるけど……その知識はちょっと偏ってる、かも」
そりゃそうだ。
俺はあらためて、桐島さんを観察する。たしか、美大で油絵を専攻していると言っていた。広大なキャンパスの静かな美術室で、彼女が真剣に絵と向き合っている姿を想像する。窓の向こうには木々の緑がさざめき、桐島さんの筆を動かす音だけが響く。
「……いいっすね」
「なにが?」
「あ、いや、なんでもないっす。桐島さん、やっぱ大学生だなって」
「あたりまえ」
桐島さんは「変なの」と口元に小さな笑みをたたえた。桐島さんの笑みは、桜がほころぶように繊細だ。彼女は、飾らない美しさを秘めているのだと思えた。
動物園の入場ゲートが見えてくると、親子やカップルが列をなしているのが見えた。
俺と桐島さんもその列に加わる。なんとなく場違いなような気がしないでもない。意識されていないことはわかっているのに、落ち着かなくて、俺は喧騒に背を押されるように「そういえば」とわざとらしく切り出した。できるだけ意識しないように、と思って口を開いたら、それこそ意識したみたいになった。
が、もう止まれない。この場の雰囲気を借りて、俺は一気に問いかけた。
「なんで、オッケーしてくれたんすか?」
「なんのこと?」
「動物園。その……自分で言うのもなんすけど、いきなり、知り合いとはいえ、ほぼ初対面の男からふたりで動物園行きましょうって、きもくないすか?」
言っていて悲しくなる。だが、桐島さんはキョトンとしていた。
「なんで?」
逆に見つめ返されたそのまなざしがあまりにも純粋で、聞いたこちらが恥ずかしくなる。
「あ、いや、なんでっていうか……普通、ほら、いろいろ考えるかなって」
「いろいろ」
桐島さんは無色透明な声で繰り返し、じっと考えこむように宙を見つめる。
やがて、前の列が動きだす。桐島さんはそれに合わせるように顔をあげた。
「絵を、描きたかったの」
「絵?」
「うん。君と、一緒に描いてみたかった。おもしろそうだなって」
桐島さんはおもむろに右手にさげていた大きめのトートバッグに手を入れた。中からスケッチブックや鉛筆が取り出される。
「ね、楽しそうでしょ?」
そういう彼女の瞳には、子どものようなキラリとした光が宿っている。
呆気にとられた俺は、自らの浅はかな思慮をバカらしく思った。
「そうっすね」
みく姉が言っていた、家族の意味がすとんと気持ちよく胸におさまる。桐島さんは多分、俺を家族として扱ってくれているのだ。
ならば、今日は余計なことは考えず、存分に楽しい思い出を作ろう。
よこしまな気持ちは捨てて、ただその思いだけを抱く。俺は桐島さんと動物園のゲートをくぐった。




