2-13.大事な家族
お邪魔しました、とみゃーこの部屋を出ると、太陽はすっかり天高くのぼりきっていた。
急に時間を意識したせいか、俺の腹がグゥと鳴る。
ひとまず、昼飯だな。なにを食べようかと思案しながらアパートの階段をくだると、ホウキで床を掃く音が聞こえてきた。音に誘われるようにエントランスを覗く。
「みく姉」
声をかけると、みく姉は驚くでもなく、掃除の手を止めた。
「あら、まこちゃん、お出かけ?」
「うん、昼飯行こうかなって」
「あっ! じゃあ、一緒に行かへん? わたしもちょうどお昼にしよかなって思ってたから」
「いいよ」
俺の返答にみく姉の顔が明るくなる。みく姉はすぐ準備してくるから待ってて、と自宅へと駆けていった。
待つこと数分。すぐにと言いつつ、女性の支度が長いものだと思っていた俺は、宣言どおりあっという間に戻ってきたみく姉に驚いた。そういえば、アパートのエントランスを掃除するだけなのに、みく姉はきちんと化粧も髪も整えていたし、本当に準備が少なかったのだろう。
「お昼、なに食べるん?」
「いや、まだ決めてなくて。おすすめ、ある?」
「うーん、おすすめかあ……。いろいろあるけど……そうやね、何系が食べたい?」
「中華か定食とか。結構腹減ってるかも」
「オッケー、じゃあおすすめの中華、教えたげる」
さすがはみく姉。この街にアパートを買って、住んでいるだけのことはある。迷いなく踏み出された一歩は、季節外れの陽気を喜んでいるような軽やかさだ。
「ほんま、ええ天気やねえ」
言われて、昨日、みく姉が今日は晴れると言ったことを思い出した。
「みく姉の天気予報、当たるんだな」
「ふふ、わたしの天気予報は、ニュースよりよう当たるんやよ」
きっぱりと言いきれるほどよく当たるらしい。
考えてみれば、昔からみく姉にはそういうところがあったように思う。晴れた朝に絶対雨が降ると言い張って、俺に傘を持たせたのではなかったか。幼いころのことで、当時はあまり気にも留めていなかったから、本当に雨が降ったのかも、傘を持たせたのがみく姉だったのかも定かではないけれど。
「あかねちゃん家の窓、直してくれたんやってね」
懐古していた俺は、突然の問いに「え?」と間抜けな声を漏らした。あかねとみゃーこが同一人物であると結びつけられなかったのもあるが、聞いた本人であるみく姉も、俺の反応に少しだけ慌てた様子で「いや、なんか、そんな気がして」とつけ加えた。
みゃーこは、窓ガラスが割れたことをたしかにみく姉に電話していたけれど、俺のことは言っていただろうか?
考えを巡らせるうち、ああ、と思いつく。
もしかしたら、ボールがぶつかったときの音はみく姉にも聞こえていたのかもしれない。結構大きな音だったし、大家なら様子を見に来てもおかしくはない。俺が気づかなかっただけで、みゃーこと俺が話しているところを見ていたのかも。
うん、完璧な推理だ。つまり、みく姉は……。
「……のぞき見したんだろ?」
やだ、エッチ、とわざとらしいくらいにふざければ、みく姉は
「ちゃ、ちゃうけど!」
と肯定にも似た否定で答える。嘘ではなさそうだが、焦りが滲む声。俺にとっては、それだけで充分だ。普段おっとりとしていて優しいみく姉の、かわいい一面を拝めただけでよしとしよう。
みく姉はそれ以上俺にからかわれまいとするためか、咳払いをひとつ。続けて、真剣な面持ちで切りだした。
「あかねちゃんとは、仲ようやれそう?」
「そう、だな。多分」
自信がなくなってしまったのは、先ほど聞いたヒミツのせいだ。みゃーこの不幸を一緒に背負ってやれるかどうか、今の俺にはわからなかった。
俺の返答に、みく姉はしばらく黙りこんだ。少しして、「そっか」と小さくうなずく。
「あかねちゃんのヒミツ、聞いたんやね」
なんでそれを、とは思わなかった。みゃーこは、みく姉に拾ってもらったと言っていた。きっと、俺に話すくらいだから、みく姉にはとっくの昔に話していたのだろう。なんなら、俺にも話したほうがいいだろうか、と相談していたかもしれない。
「……うん」
「あかねちゃん、ああ見えて、寂しがりやから。なんかあったら、助けてあげてな」
みく姉は口元に柔らかな笑みをたたえる。確信がなくても、そう思ってあげることが大切なんだと存外に諭されたような気がした。
その期待に応えたい。
「うん」
ギャルでビッチに見えるけど、多分、みゃーこは自分が不幸体質だからという理由で、あるいは、不幸に慣れてしまっているせいで、誰かに頼ったり、甘えたりすることが得意ではないのだろう。片付けの手際のよさも、大学を辞めてしまった経緯も、俺にヒミツを打ち明けた理由でさえも……彼女の言動の端々には孤独が滲んでいたから。
だから、すぐには難しくても、いつかみゃーこを支えてあげられるような人にはなりたい。
みく姉は、俺の心の内を察したのか、
「ありがとう」
と静かに笑った。
「あのアパートに住む人はみんな、わたしの大事な家族やから」
みく姉は照れくさそうにはにかむと、これでこの話はおしまいだと言うように前方を指さした。
「あそこやよ」
見れば、中華料理屋の看板が表に出ている。店前に飾られた真っ赤な紐飾りがいかにも中華な雰囲気を醸し出していた。
「お、いいじゃん」
「やろぉ? ここ、町中華やけど、なに食べてもおいしいんよ」
花椒や八角の匂いが鼻をくすぐる。なにを食べてもおいしい、と言うみく姉の言葉はおそらく本当だろうなと思った。
みく姉が無邪気に中華料理屋の扉を押し開ける。
俺はそんな彼女の背を見つめ、こうして外食をするのも久しぶりだ、と思った。
みく姉が言った、家族、その意味がじわりと体の芯から俺を温める。
「……家族、か」
俺も、いつか、みゃーこにそう思われるような関係を築けるのだろうか。
桐島さんや、鈴とも。
「そう、なればいいよな」
俺は祈るように呟いて、みく姉のあとに続いた。




