1-1.あなたも自由に生きてね
透きとおった着信音がけたたましく鳴り響く。それを止めようと、俺は布団から手を伸ばした。電話のアイコンをスワイプし、スピーカーに切り替える。
「……ぁい」
「お、生きてんじゃん」
電話の向こうから「生きてるって」「まじかよ、寝てろよ」「はい、ジュース一本おごり決定!」と友人たちの声が聞こえる。喧騒が俺の眠気を吹き飛ばす。俺は時計を見やった。
「……八時、半?」
目をこらして短針と長針をもう一度確認する。
「あっ!?」
「何回目だよ。今日も寝坊で遅刻って伝えとくぞ~」
友人のニヤニヤとした顔を想像しているうちに、電話はあっけなく切れてしまった。
「え、ちょ、いやいやいやいや!」
俺は布団から飛び起き、勢いそのままにふすまを引く。
「ちょ、母さん! なんで起こしてくれねぇんだ……よ……あれ?」
だが、いつもならそこにいるはずの母さんの姿はない。俺の威勢が一気にしぼんでいく。
「……母さん?」
ダイニングに俺の声だけが響く。トイレや風呂、洗面台にいる気配もない。母さんの仕事は夕方からだし、ゴミ出しだって今日はないはずだ。
「出かけるとか言ってたっけな」
せめて朝食と弁当だけでも用意しなければ。冷静に頭を回転させ、冷蔵庫に手を伸ばした。そのとき、ふと冷蔵庫のドアに貼られた見覚えのないメモが目につく。俺はそれを剥がした。
「なんだこれ」
『あなたも自由に生きてね』
瞬間、俺は息を飲んだ。すべてがピタリと時を止めたような、そんな感覚に支配される。
母さんの筆跡で書かれたカラフルな文字列。がらんとした家。そのギャップに心臓がバクバクと音を立て始め、俺の世界は再び動き出す。
書かれた言葉の意味をゆっくりと咀嚼する。あなたもって俺のこと? 自由にって、今でも充分自由だ。それに生きてもいる。
あなたもって、『も』ってなんだよ。
その言葉が意味するところは、俺以外にも自由に生きる人間がいるということだ。
それはすなわち……。
「……は?」
蒸発。警告色の二文字が脳内によぎる。いやいやまさか。いや、でも。ただ出かけただけで、こんな意味深なメモを残す必要ないよな? ドッキリにしてはタチが悪すぎるし。いくら京都生まれの母さんだからって、こんな風に人をからかうなんてことはしない。
「母さん?」
祈るようにスマホをタップする。耳元へ押しつける間もなく、スピーカーからは無色透明な機械音声が流れた。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』
手から冷や汗とともにスマホが滑り落ちる。
「っていうか、自由ってなんやねん!」
焦燥を空元気に変換してツッコんでみても、メモ用紙は答えない。
父と離婚して七年、女手ひとつで俺を育ててくれた母が突然いなくなった。母さんからのメモは呪いのようにそんな現実をつきつけるだけだ。母が存在していたことを、たった一枚の紙切れだけがかすかに証明している。こんなメモなら、なかったほうがマシだ。
「……まじかよ」
っていうか、もし本当に母さんが家出したんだとして、俺はどうやって生きていけばいい? 自由に? どうやって?
俺はようやく思い出したように冷蔵庫のドアを開けた。昨日の残りのケーキがワンカット。うどんが一玉。卵が二個と、食べかけのカット野菜。もって一日だ。バイト代はちょうど使い切ってしまった。貯金をおろせばいくらかは生きていけるだろうが、それもすぐに限界がくる。そもそも、家賃って払わなかったらどうなるんだっけ。っていうか、電気とかガスとか、水道も全部ダメじゃね? ネットも解約しねぇとやばい?
現状を理解して、一気に体から力が抜ける。
母親が蒸発したときにすべきことなんて、ひとつも知らない。落ちたスマホを拾いあげ、ググってもみたが、それすら数秒と経たぬうちにバカらしくなった。
学校に行くべき? いや、それも変か? 母さん蒸発しちゃったって? あ、でも、それなら遅刻も許されるか? ってバカバカ。さすがに発想がサイコパスすぎるだろ、俺。母さんと遅刻が引きかえってなんだよ。友達とか先生に相談すべき? すべきだよな?
セルフツッコミを重ねに重ねて、俺は母さんからの最後の手紙を丁寧に折りたたむ。ポケットからペラペラの財布を取り出して、お守りのように忍ばせた。
夢に違いない。そうだ。遅刻も全部悪夢だ。俺は祈るように玄関を出る。朝日がやけに眩しくて、反射的に目を閉じた。
瞼の裏に、昨晩の母さんの笑顔が浮かぶ。
昨日は母さんの誕生日だった。学校終わりにデパ地下へ行き、「誕生日プレゼントにぴったりですね」と店員に勧められるがまま高い化粧品を買った。夕方、母の出勤前に誕生日ケーキと一緒に渡して……。母さんは泣いて喜んでくれたはずだ。
「母さん、幸せ?」
わざわざ訊かなくたって答えはわかっていたのに、自分の気持ちを満たすためだけに尋ねたのがよくなかったのだろうか。
「うん、ほんまに、ほんまに幸せやわ」
そう言った母さんの声はどんな色だった?
母さんの声がフラッシュバックする。
引きずり出した声色は、海のように深く悲しい青を脳内に広げた。碧、藍、蒼。どこを見ても青い。
考えたくなくて、どっと噴き出た汗を振り払うように玄関扉の鍵を閉める。
秋めいた木枯らしがアパートにむなしく吹き抜けた。




