7
生活の中のふとした瞬間に、雛子は清春の気配を感じることが多くなっていった。彼女の部屋には彼のための歯ブラシやカミソリが常備された。元々妹がよく遊びにくることもあり、一人暮らしにしては多くの食器を取り揃えていたが、清春用のマグカップも彼の好みで購入した。簡単な着替えも置きっぱなしだ。
そんな雛子の部屋で、彼はしみじみとした口調で呟く。
「僕はもうこの部屋に住みたい」
清春がそう口にするのは、恋人の部屋だからという甘やかな理由ではなく、もっと即物的で切実な理由があった。
雛子の部屋は十一月を迎え、軽く模様替えをした。ベッドやテレビ、家具の位置はそのままである。大きく変わったのは一点、部屋の中央に置かれているテーブルだった。
立った雛子の膝ほどの高さしかないローテーブルに、今はこたつ布団が掛けられていた。彼は、軽い気持ちでこたつに足を入れ、あっさりとそれの虜となってしまったのである。
「誰だ、初めてこんなものを考えついた人間は。悪魔の発明だな」
「どうして悪魔?」
「誰も出たくなくなるだろ、こんな気持ちいいの」
清春の今の部屋にはこたつがない。そして、それ以前に住んでいた彼の実家でもこたつに入ったことはなかったらしい。つまり、こたつに触れるのはこれが初めてだったようだ。さぞ気持ちいいと聞いているがどうなのだろう、と疑い半分で雛子宅で初めてこたつを体験した清春は、あっさりとその魅力に取りつかれてしまったのだ。
「だから言ったでしょ。人を堕落させるって」
「いやそれにしても、まさかここまでとは………」
怖い怖い、と嘯きながら、清春は大きな身体を丸めてなるべくこたつに入り込もうとする。それでも肩が出ていて風邪を引きそうだったので、雛子はこたつから立ち上がってベッドに掛けていたストールを手に取り、彼の肩に掛けた。雛子も彼の入っているこたつの隣の辺の部分に足を入れ、その場にごろりと転がる。天井を見上げると、白い電気の灯りが視界に飛び込んできて、少し目が痛かった。
「雛子のとこは、実家にもこたつがあるのか?」
「あるよ。リビングにだけだったけど。妹とよく一番テレビが見やすい場所を取り合ってたなあ」
「いいなあ。中学の頃にも遊びに行けばよかった」
清春はそう呟くが、彼らの中学生の頃は時折世間話をする程度で、お互いの家を行き来するほどには、親しい間柄とは言えなかった。それでも当時の清春がそれを望めば、自分は簡単に家に招いていただろうな、と雛子は思う。
中学の頃の彼と自分を振り返り、彼女はあることを思い出した。
「そういえば、仁見くん。同窓会の案内は来てた?」
ごろん、と寝返りを打って、クッションを枕にした雛子は清春の方へ身体を向けると彼にそう問いかけた。
「同窓会?あれってもっと年取ってからするんじゃないのか?」
「卒業十年目ってことで企画してくれたみたいだよ」
雛子はそう説明したが、実際に同窓会が開催される予定となっている六月は、卒業十一年目となる。企画が遅かったのか、或いは会場を押さえられなかったのだろうか、と雛子は適当な予想していた。
「んー、確認してないが、もしかしたら元の家に届いてるのかもしれないな」
「あ、そっか。私も実家に届いてたし、仁見くんもそうかもしれないね」
雛子の言葉に、ふうん、と気のない返事をして、清春は彼女の方に寝返りを打つ。自身の腕を枕にして雛子に問いかけた。
「雛子は行くのか?」
「考え中。仁見くんは?」
「考え中」
中学三年生の頃の教室で、清春は浮いていたし、雛子は沈んでいた。要するに彼女はクラスで埋没する目立たない生徒だった。雛子が今も親しくしている友人たちは高校以降でできた友人がほとんどで、当時は特別親しい友人がいたとはいえなかった。行動を共にしている者たちならばいたが、あれは一人になるのが嫌で身を寄せ合っていただけだろう、と今の雛子は思う。
「あ、でも、先生には会いたいな」
雛子は当時の、踏み込み過ぎない程度に生徒を気にかけてくれていた担任教師に信頼を寄せていた。十年ぶりだと思えば懐かしく、会いたい気持ちは確かにあった。
「あー…じゃあ、一緒に行こうか」
「え、ほんと?仁見くんも行く?」
「せっかくの機会だしなあ」
そう言って、清春は雛子の問いを肯定する。彼と一緒に行けるならば、尚更楽しみに思えてきた。開催日時は六月の第二日曜日で、日曜日は仕事も定休だった。余程のことがなければ問題なく出席できるはずである。
「僕と行けるのが嬉しいのか?」
すると、清春がにやにやとからかうような笑みで雛子を見つめる。全くもってその通りだが、素直に認めるのは少々気恥ずかしく、視線を彷徨わせてから小さな声で応えた。
「嬉しいよ」
「そうかそうか。ひなちゃんはそんなに僕のことが好きか」
まるで小さな子どもに対するように、清春がそう口にする。眠そうに半分瞼をずり下げた状態で、そんな彼の手が雛子の方へ伸びてきた。首の後ろに添えられた手に抵抗せず彼の様子を眺めていれば、案の定清春は上体を浮かせて彼女のそばに反対の手をついた。そのままゆっくりと清春の頭が降りてきて、雛子の唇にキスを落とす。
雛子は目を閉じて、彼の首に両腕を回した。さっきまで心地よかったこたつの温度を、少し熱く感じた。
中学時代とは、一般的に最も多感な時期だと言われている。心身共に成長する時期であり、気持ちが不安定になりやすい。物事を重く受け止めすぎて、思い悩むこともあるだろう。
住吉雛子にとっても中学生時代は例外なく多感な時期であり、また反抗期でもあった。元々内向的であった為にそれがあからさまに表に出ることはなかったが、両親に対して反発心が芽生え、誰も自分を理解してくれないと思い、強い孤独を感じていたのがこの時期だった。
けれど、雛子はその性格が災いして、自身の中に燻ぶる不満を上手く口に出せないでいた。何も思っていない訳でも、何も考えていない訳でもない。それを吐き出そうとすれば、まるで唇が縫い付けられたように、或いは喉を焼かれたように言葉になってはくれなかった。
不満を言葉にすることも出来ずにいた雛子は、それでもどうして分かってくれないのか、という不満を両親に対して抱え続けていた。大人になってから当時のことを振り返り、なんという無茶な願いを持っていたのかと、雛子は盛大に居たたまれなくなることが多々あった。
そんな雛子にとって、彼女の目から見て何でも思ったことを躊躇いなく口に出せる仁見清春のはっきりとした性格は、憧れを抱くのに相応しいものだった。
彼は少女のような細く小さな身体で、誰に対しても物怖じすることはなかった。屈強な体格の教師に対しても、少々柄の悪い男子生徒に対しても、堂々と向き合い、受け答えをしていた。雛子は何度も何度も思った。自分も彼のようなら良かったのに、と。
雛子が憧れの視線を送っていたからだろう。彼と目が会うことが何度か合った。そんなとき、雛子が偶然一人でいれば、彼は時々気まぐれに彼女のそばに歩み寄ってきた。
くだらない世間話をすることもあれば、授業で分からないところを教え合うこともあった。彼にとってそれが暇つぶしでしかないと分かっていても、清春と話す時間は雛子にとって確かに楽しい時間だった。
そんなあるとき、雛子はふとした拍子に彼に家庭での不満を漏らした。後から思えば、些細でつまらない癇癪だった。実際にそのときでさえ、口にし終えた雛子は、それを彼に聞かせてしまったことをすぐに後悔した。自身の恥部を晒してしまったと思ったのだ。
しかし、清春はそんな彼女に対し、きょとんとした様子であっさりとこう口にした。
『住吉は親が嫌いなのか?』
好きとは、どうしてだって言えなかった。けれど嫌いと言えるほど単純であったなら、それは悩みとすら言えないものだろう。
『分からない………』
悩んだ末に、雛子はそう呟いた。情けなくて仕方がなかった感情を、彼女はその後十年忘れられなくなってしまう。清春はふうん、と至極詰まらなさそうに呟いた。
『大変だな。僕は好きだけどな、自分の親』
彼はあっけらかんと口にした。何の迷いもてらいもない言葉だった。すんなりとその言葉が出てくるのは、それだけ親と良好な関係を築いているからだろう、と雛子は思った。
そんな彼を羨ましいと思った。親に対してどろどろと黒い感情を抱く自分を、雛子はひどく醜く感じて、彼のように言い切れたら良いのに、と思った。そして気付いたのだ。
彼女は、親を好きでいたい、親を好きな自分でありたいと願い、それが叶わないからこんなに苦しいのだと。
『いいなあ』
その言葉が、自身で驚くほど素直に雛子の口から零れ出た。口ごもってばかりいた当時にしては、あまりにも正直な言葉だった。
『親の、どういうところが好きなの?』
雛子の問いに、清春は少しだけ考える素振りを見せ、それからへらりと笑った。
『僕の親なとこ』
それは、あまりにも分かりやすく、簡潔で、シンプルな答えだった。そんな事なんだ、と雛子は思った。同時に、そんな事でいいのだと、呆気にとられた。清春の言葉を受け止めて、じっくり咀嚼して嚥下し、これまでとは違う理由で、彼に対して憧れを抱いた。
自分も、彼のように親を敬い、自然と好きでいたい、と思った。素直に親を好きだと言えるその在り方が、彼女の目にはとても尊いものに映り、自身もまた、そうありたいと願うようになった。それには難しい理由などいらないのだと、清春が教えてくれた。
その後、少なからず時間は掛かったものの、雛子は親に張っていた意地と反発心を宥め、自然と両親とも付き合えるようになった。高校生になってしばらく経った頃には、特に大きな問題もなく過ごせるようになっていた。
だから、変わりたいと思えるきっかけをくれた清春には、雛子はずっと恩を感じている。十代の少女が憧れから恋心を抱くには、十分過ぎる理由だった。




