5
案内された店は、駅から少し離れたところにあった。
歩車分離式の信号が設置されている大きな横断歩道を渡ると、飲食店が多く並ぶアーケードへと辿り着く。その中を歩いて、信号をまた一つ渡って、ある建物の地下へと続く階段を下りた。階段の壁には少しの電飾と、舞台やライブの広告が掲示されている。その為に地下ではあるが、雛子はあまり暗い印象を受けなかった。
階段を降りれば、正面に会計をするカウンターが設置されており、そこにあるベルを鳴らせばすぐに店員がやってくる。案内されて店の奥に進むと、テーブルを挟んで二脚の椅子が置かれた二人用の席に通された。
「時間が早いからか、空いててよかったな。二人席だからちょっと狭いが、カーテンもあっていいだろ」
その店は一席ずつカーテンが付いているようで、少しばかり個室に通されたような気分を味わえる。もちろん天井も足元も繋がっているので、賑やかな周りの声や人の気配は伝わってくるが、人の目が届かないだけでも雛子はそっと肩の力を抜けた。
一緒に出歩いていて実感したのだが、清春は人目を惹く。時折じろじろと不躾な視線を向けられるので、雛子はずっと落ち着かなかった。
対して、清春はまるで気にした様子はなかった。今とはまるで方向性は違うが、彼は中学生の頃から飛び抜けて目立つ容姿をしていた。人の視線には慣れているのかもしれない。
「とりあえず僕は唐揚げが食べたいんだが、住吉は何を食べる?」
「どうしようかな。あ、仁見くん、サラダ大丈夫?一緒に食べてくれるなら頼みたいんだけど」
「食べる。あ、それならシーザーサラダにしてもいいか?」
とりあえず先に各々ドリンクだけ注文し、二人でメニューを覗き込む。雛子は平然としたふりを心がけていたが、お互いメニューに顔を寄せると途端に彼との距離が近くなり、緊張で体温が上がった気がした。
「いいけど、シーザーサラダが好きなの?」
「あれが好きなんだ。パンの乾いた小さいの」
「クルトン?」
「そうそれ!」
そうだそうだあいつそんな名前だったなあ、と清春はまるで知り合いのようにそう口にして、雛子は思わず吹き出して笑う。彼女としては、クルトンに対してどうしてそんなに親しげなのかと思うと、変にツボに入ってしまった。
「自分が知ってるからって笑ってるな」
「そうじゃなくて、知り合いみたいに言うから……」
いい加減笑いを収めよう、とまだ少し口元に笑みを残しながらも雛子が態度を繕えば、メニューを見ながら会話をしていた清春が、不意に顔を上げて彼女の顔をじっと見つめた。それだけで、雛子の胸は正直に高鳴ってしまう。
「よかった」
「え?」
雛子が問い返せば、清春はまた、メニューへと視線を落とす。目が合って、先程は居心地が悪いほど緊張したのに、彼の視界から外れてしまったことを、雛子は残念に思った。
「なんか、緊張してるみたいだったから。ちょっと暗かったし、付き合わせて悪いことしたかなって思ってた」
ふと漏らすように、清春の顔に笑みが浮かぶ。彼はいつも笑っているけど、殊更柔らかな印象だと、雛子は思った。
「あの、」
「うん」
「誘ってくれて………嬉しかったよ」
緊張しながら、噛みそうになりながら、雛子はそれだけを必死な気持ちで彼に伝えた。すると、再度顔を上げた清春が、彼らしくくしゃりと笑みを深めた。
「よかった」
雛子は、素直に好きだなあ、とそう思った。
適当に何度か注文をして、ほとんどの食事が終わったところで、雛子は何時だろうかとショルダーバッグからスマートフォンを取り出した。画面には大きく十九時七分と表示されている。店に来てから一時間半ほど経っていたらしい。
「あ、もう結構時間経ってるな」
清春も時計を確認したようで、彼も手にスマートフォンを持っている。雛子は清春とこうして食事を出来るだけで楽しいが、彼もまた、この時間を短く感じるくらい楽しんでくれていればいいのに、と思った。
「そろそろ出るか。あ、最後にもう一杯だけ頼んでもいいか?」
「あ、じゃあ、私も」
スマートフォンをテーブルの上に置いて、雛子はドリンクのメニュー表を手に取る。悩んだ末に彼女はりんごの果実酒を選び、最後は甘いのがいい、と言った清春の梅酒と一緒に注文した。
「ごめん、ちょっとお手洗いに………」
「ああ、いってらっしゃい」
一言断りを入れて、雛子はショルダーバッグを持ってトイレに向かう。強い訳ではないが、極端に酒に弱いタイプでもないので、身体に変調はない。しかし、こうして歩けばどこか足元がふわふわとおぼつかず、雛子は酔っているなあ、と苦笑した。
トイレで用を済ませ、軽く化粧を直して彼女が席に戻れば、すでに飲み物は運ばれていた。
「おかえり」
「え、あ、ただいま」
出迎えてくれた清春の笑顔は、見送ってくれたときと変わりない。変わりないはずであるのに、雛子はどこか違和感を覚えて内心首を傾げた。
落ち着かない気持ちを誤魔化すように、届けられたりんごの果実酒で喉を潤すが、どうにも視線を感じる。目の前の清春も片手に梅酒が入っているだろうグラスを持っていたが、何故だかその視線が過剰なほど雛子に注がれていた。
「なあ」
些細でよくある呼びかけだった。その直後の言葉に、雛子は度肝を抜かれることとなる。
「住吉は、僕のことが好きなのか?」
口を付けていた果実酒を、吹き出さなかっただけ自分を褒めてあげたい、と雛子は思った。しかし、吹き出さずには済んだものの、口に含んでいたものが気管に入り、彼女は盛大に噎せてしまう。慌ててグラスをテーブルに置いて、おしぼりを口元に押し当ててた。塗りなおしていたグロスが滲む感覚がする。
「ど、してっ。そんな………」
「それ」
清春が指差したのは、テーブルに置かれている雛子のスマートフォンだった。トイレに行く前にそれだけショルダーバッグから出し、テーブルの上に置きっぱなしにしていたことに、彼女は今頃気付く。
画面が天井を向いている雛子のスマートフォンのホームボタンを、清春の長い指が押した。
「うっぁあ!」
咄嗟に短い悲鳴を上げて、雛子はその画面を両手で隠した。画面には、メッセージアプリの新着通知が表示されていた。新着通知には、本文の冒頭部分も表示されている。
そこには、絶対に清春に見られてはならない言葉が並んでいた。
『雛子が今日好きな人と出かけるって言っ』
メッセージの発信者は雛子の高校時代の友人だった。就職と同時に東京に行ってしまい、もう随分長いこと会えていないが、一番気心の知れた友人であり、今もこまめに連絡を取っている。そんな彼女には、雛子は当然清春のことも相談していた。
よりによってスマートフォンの画面を上に向けたまま席を立ってしまった自分が全ての原因だが、雛子は友人に対して恨みがましい思いを持つ。
「み………っ」
「見た」
話の流れから、見られていることは分かりきっていた。それでもわずかな可能性に縋りたかったのだが、念を押すように清春が口にする。
「言っておくが不可抗力だぞ。急にバイブが鳴るからびっくりしてそっちを見たら、文字が見えたんだ」
清春はそう申し開いたが、雛子は元より画面を見られたことに関して責めるつもりは毛頭ない。ただただ、今彼女の心にあるのは、穴を掘って消えたい、というそれだけだった。
一瞬にして血の気が引いた雛子の身体は、今ではその反動のように羞恥で全身が熱かった。
「それで、僕のことが好きなのか?」
清春は、どうも見てしまったそれを忘れてくれるつもりがないらしい。どこか可笑しそうな、彼の探るような視線が、怒涛の勢いで雛子を窮地へ追い込んでいく。
否定をすれば嘘になる。しかし、肯定する勇気が突然湧いてくるはずもない。
「あの…………」
「うん」
相槌を打つ清春の声は、存外優しいものだった。拒絶も嫌悪も感じられなくて、少なくとも雛子が好意を抱いていることに関しては、受け入れてくれているように感じた。
雛子は覚悟を決める。もうどう誤魔化したところで、清春は誤魔化されてはくれないだろう。
「私、教室が居心地悪くて、言いたいこと全然言えなくて、周りに合わせてばかりだったんだけど、仁見くんが、そんな私とは全然違ってて」
振られたら、せっかく再会できたのにもう二度と会うことも叶わなくなるのだろうか。そう思うと雛子は悲しくて仕方なかった。清春に恋人がいるのか、好きな人はいないのか、まさかそんなことも知らない内に告白をしなければならない状況に追い込まれるなど、思ってもいなかった。
「憧れてて、好きだって気付いたのは卒業してからだったんだけど、ずっと忘れられなくて、この間久しぶりに会えて、その…………やっぱり好きだなって」
雛子の頭の中で、何度も何度も消えたい、という言葉が巡る。過去を変えられるなら、今なら悪魔に魂を売ってもいいとすら思った。しかし、残念ながら悪魔はどうやら怠惰らしく、彼女の願いに応えてくれる存在が現れることはなかった。
「ふうん」
雛子の言葉を吟味するように、清春はそう呟く。羞恥心が限界に達していた雛子は、膝の上で両手を握り、ただひたすらテーブルと自身の身体の間の隙間を見つめていた。
「それさあ、住吉はどうしたいんだ?僕と付き合いたいのか?」
あまりにも率直な清春の問いかけに、雛子は迷ったものの恐る恐る頷いた。その欲求は、けして否定出来るものではない。他の女性が彼の隣にいるところを想像すると、苦しくて仕方がないのだから。
「そうか!」
清春から、明るい声が上がる。その明るい声に相応しい調子で、彼は至極簡単にこう口にした。
「じゃあ、付き合おうか」
当然雛子は、何を言われたのかたっぷり五秒は理解できなかった。




