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もうやめときなよ、妹はそう言った。
咲良は姉のことが好きだった。普段チョロそうだとか、鈍いとか、そういうことばかり口にしているが、それもまた雛子に甘えているからこそ出てくる言葉だった。咲良は姉に甘えているのだ。それが心地よくて、ついつい口が過ぎてしまう。そして、雛子もまた、咲良の一言に落ち込むこともあったが、そんな妹を可愛がっていた。
「絶対他の男を見つけた方がいいって」
だからこそ、ゴールデンウィークに実家で会った咲良にそう諭されたのも、妹として雛子を心配しているからだと分かっていた。咲良は、雛子から清春との顛末を聞き、一度も好意を口にしなかったこと、一方的に彼女を振ったことに対して甚く腹を立てていた。雛子が彼を庇うので、余計に熱くなってしまったのだろう。
「他の人じゃ、だめなの」
誰も彼の代わりにはならないし、彼でなければそばにいたいとも思えない。彼でなければ、きっと優柔不断で臆病な雛子は足掻きたいと藻掻くこともなかった。足掻かなければ、泣かずには済んだかもしれない。けれど、きっとそこに彼女の求める幸せはない。
だから、もう少しだけ頑張ってみようと、雛子はもう決意していた。
連絡は入れなかった。もう二人は恋人同士ではないのだから、突然家を訪ねても迷惑なだけだろう。もしかしたら、ストーカーだと思われるだろうか。けれどきっと、一報を入れて拒絶されたら、もう頑張れない。だから雛子は、例え乱暴な選択だとしても直接彼の家を訪ねることにした。
決心がついたのは、ゴールデンウイークの明けた次の土曜日だった。それまで雛子はいつ行こうか、とずっと踏ん切りが付かずに思い悩んでいたのが、朝起きて、不思議と今日行こう、と決めた。これでダメなら今度こそ諦めよう、すぐには忘れられなくても、もう追いかけることはやめよう、と思った。
しっかりと化粧をして、お気に入りの服を着て気合を入れる。竦みそうになる足を叱咤して、必死に家を出た。
清春の帰りは十五時くらいになるだろう、という検討がついていたので、それよりも早くに彼の家を訪ねると、案の定インターホンを鳴らしても部屋の中から反応が帰ってくることはなかった。彼の部屋の前で、帰りを待つことにする。
清春のアパートは二階建てで、部屋の突き当りの窓が道路に面している。外付けの階段が付いているが、彼の部屋は一階の右から二番目。雛子は道路側から反対に向かい、玄関に背中を預ける。
五月を迎え、日中は暑く感じる日すら増えてきていたが、一人でいつ帰るかもしれない清春を待つのは心細く感じた。アパートの他の住人と目を合わせれば、それもそれで気まずい。
清春はどんな気持ちだったのだろう、と雛子は想像する。あのとき、彼女のマンションの前で待っていた彼は、何を考えていたのだろう。寒い冬の日だった。雛子が思っていた以上に凍えていたのではないだろうか。かじかむ指先を、どんな想いで擦り合わせていたのだろう。暖かい春の陽気の下でさえ、こんなに心もとないのに。
その場で二十分ほど待った頃、三度目に人の気配を感じて顔を上げる。清春が、呆然と目を見開いてその場に立っていた。約二ヶ月ぶりに彼の顔を見られただけで、こんなに嬉しくなってしまうのだから、恋とは悩ましいものだと雛子は思う。
彼女は弾かれたように背筋を伸ばし、口を開いた。
「あの!突然来て、ごめんね」
「…………………なんで」
清春の言葉は冷たかった。分かりきっていたことだが、雛子の訪れは彼の本意ではないのだろう。
「話がしたくてっ」
「僕は、話はしたくない」
噛みしめるようにじっくりと、清春はそう口にした。雛子とけして目を合わせず、彼はポケットから鍵を取り出して、部屋に帰ろうとする。このまま閉めだして、彼女を拒絶するつもりなのかもしれない。
覚悟はしていた。嫌がられることも、話すら聞いてもらえないことも、想像しては怯えて、それでも覚悟して雛子はここに来たのだ。どうせ嫌われようが何だろうが、この先の人生が交わらなくなってしまうことには変わりない。そう言い聞かせて、雛子は今すぐにでも引いてしまいそうになる足に力を込めた。
「ひっ、仁見くんは勝手だ」
泣くな泣くな泣くな。雛子は自分に言い聞かせて涙を呑む。泣けば嗚咽が漏れて言葉なんてろくに紡げなくなってしまう。
「勝手に考えて、勝手に一人で結論を出して、相談もしてくれなくて、ひどい。私は一緒に悩みたかったのに」
部屋の扉に向かって、雛子へ背を向ける清春の服の裾を、彼女は強く掴んだ。振り払われることはなくて、少しだけ安心する。
「私は子どもなのかなあ。将来のことなんてまだ分かんないよ。今一緒にいたい気持ちでいっぱいいっぱいなんだよ。もしもこの先の未来で躓いたら、一緒に悩んで支えあっていけるような、そういう風にして一緒にいたかったんだよ」
言葉が上手く纏まらない。何を伝えようか、きちんと考えていたのに、何度もシミュレーションして、ようやくここへ来たのに、口から溢れるのは感情的なそればかりだった。
「仁見くんが嫌で、それが仁見くんの為だって言うなら、分かるの。私だって納得する。でも、私の為だって言うなら」
もうこの際だ、と雛子は思った。雛子は事なかれ主義のところがある。譲れない部分はほとんどないし、自分の意見を主張することが何より苦手だ。優柔不断で人の顔色ばかり伺ってしまう。そうして飲み込んだ沢山の言葉で、自己嫌悪に陥ってしまう自分が大嫌いだった。
けれどもう、誰より嫌われたくないと思っている清春との関係はすでに終わっており、マイナスに振りきれている。それならいっそ、言ってしまえ。好きだからこそ、勇気を出して思ったままぶつけてしまえ。
雛子ははっきりと断言した。
「余計なお世話」
突き放すように人にそんな言葉を向けたのは初めてだった。けれどこれでお相子ではないか。清春だって彼女を突き放した。雛子の為、という柔らかいナイフで彼女の心に傷をつけたのだ。
「後悔ならちゃんと未来でするから、今目の前にいる私を見て。今の私は仁見くんに好かれたら嬉しくて、嫌われたら悲しいの。後先考えない馬鹿でいい。それに私、仁見くんに幸せにしてほしいなんて、思ったことない」
将来悩むのかなあ、悩むんだろうなあ。けれどそんなの誰だって同じだ、と雛子は思う。きっと誰といたって、将来のことには悩むだろうし、この先の未来で彼以外の誰かと家庭を築いて子どもを産み育てるとしても、堪え難いほど思い悩むに違いない。けれど、雛子が一緒に悩みたいと思う相手は、どうしてだって清春の他にはいないのだ。
「仁見くんと一緒に、幸せになりたかっただけなんだよ」
雛子は大抵のことには身を引き、譲ることができる。どうしても、何があっても、例え誰かに恨まれたって譲れないたった一つが、清春だったのだ。
「……………………僕は、雛子のことを理解できないし、雛子だって僕のことを理解できないと思う。どうしてだって、そんな良い方に転がるはずがない」
「どうして?」
彼女に背を向けたまま、絞りだすような声で清春がそう言う。
「住んでる世界が違う」
その言葉を聞いた瞬間の、雛子の行動はほとんど反射だった。自分の行いを自覚するよりも早く、清春の短い悲鳴が上がる。
「ぃってえ!」
雛子は彼の足を踏んだ。爪先で容赦なく。体重こそ乗っていないが、勢いのいいそれはそれなりの痛みを彼に与えたことだろう。
「ほら!同じ世界にいるでしょ!」
だから足を踏むこともできるのだと、雛子はやり過ぎたと冷静になるよりも先に言い切った。清春は労るように片足を上げていたが、呆気に取られたように彼女を見つめる。呆然としたまま、彼女の顔と自身の足を交互に見て、それから声を上げて笑った。
「ふっははははっあっはっはっは!こっえぇー」
彼の笑い声を聞き、雛子はようやく冷静になった。瞬時にやり過ぎた、と思って顔から血の気が引く。ここまで頭に血が上ったのも、人に向かって怒鳴りつけるように喋ったのも、当然暴力に等しい行為をしたのも始めてだった。
「ごっ、ごめん!私、つい……………」
「あー…いいよいいよ。言うほどは痛くないし」
勢い余って踵で踏まなくて良かったと、雛子は変に冷静な部分でそこだけは安堵した。爪先ならばまだそれほど力は入らないが、踵であったならば女性の力でも破壊的な威力があっただろう。笑い転げるようにその場にしゃがみこんだ清春は、膝の上で組んだ両腕に顔を伏せ、肩を揺らして笑いながら口にする。
「ひなちゃんはほんとに僕が好きだなあ」
「好きだよ。ずっとそう言ってるでしょ」
「うん、うん。僕はそれが嬉しかったんだ」
しゃがみこんだ清春を案じながら雛子も目の前にしゃがめば、彼の手が彼女の腕を掴む。
「所謂普通の形で一緒にいるのは、難しいかもしれない。僕はそれが、今も怖いんだ。それでも、なあ。雛子のそばで、まだ雛子を好きなままでいてもいいか」
答えの分かりきった問いかけだった。雛子は破顔して涙を流す。彼女がずっと聴きたい言葉がそれだった。泣きながら頷いた彼女に、清春はごめんなあ、と似合わない泣きそうな顔でそう口にする。
「とりあえず中、入ろう」
立ち上がった清春に手を取って促され、雛子も立ち上がる。部屋の扉を開けた彼に連れられて、久しぶりに清春の部屋へ立ち入った。
途端に雛子に向かって彼の腕が伸び、強く抱きしめられる。清春の首に腕を回せば、柔らかなキスが降ってきた。
これからも沢山のことですれ違い、喧嘩して、きっと傷つけ合ってしまうのだろう。優しいだけの関係なんて、どこにもありはしない。だからこそ、お互いを想って話し合うことが大切なのだ。そうであればいいと、雛子は思う。
それでも今だけは、言葉よりも雄弁にただ好きなのだと、そう伝えたかった。




