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電気、ガス、水道。人が生活する上で必ず必要とされるこの三つの内、料金の未払いがあった場合、一番に止められるのは電気だ。最後は水道。水分は命に関わるため最後まで止められないらしい。
電気はすぐに止まる。どんなに寒く、かじかむような雪の日でも。だから清春は冬が嫌いだった。
はあ、と両手に白い息を吹きかけ、冷え込む気温に無駄な抗いをする。一瞬温かい息に触れてほっとしたけれど、すぐにその温もりも霧散した。
「ごめんね、お待たせ」
正月は毎年極端に冷え込むなあ、と清春は思う。それは今年も例外ではなく、初詣を目的に家を出たが、今日もよく冷え込んでいた。手のひらに息を吹きかけて寒さを誤魔化していると、そう言って雛子が駆け寄ってくる。彼女は申し訳無さそうに謝罪を口にしたが、待ち合わせに遅れた訳ではない。清春が早く来ていただけのことだった。
彼女はこういうとき、自分に落ち度がなくとも謝る悪癖がある。損をするだけだから止めておけばいいのに、と思うがそれを彼が口にすることはない。清春は雛子のその不器用さが、存外嫌いではなかった。
「急に誘ったけど、本当に大丈夫だった?」
「大丈夫大丈夫。家で暇してただけだし」
初詣に行こう、と雛子から誘いを受けたのは二日前、元旦の昼のことだった。思わずというように『会いたい』と零して大慌てしていた彼女を思い出し、清春はくすりと笑う。
「どうしたの?」
「んや、思い出し笑い」
「何を思い出したの?」
「雛子が会いたいって言っ……」
「わっ、わー!」
清春が素直に答えようとすれば、それを言い切る前に雛子が大きな声で彼の言葉を遮った。どうやら今思い出しても恥ずかしいらしい。慌てて誤魔化そうとする雛子にまた少し笑って、清春は彼女へ手を差し伸べた。
「ひなちゃんは僕が好きだからなあ」
からかうような清春の言葉に、雛子は少し拗ねたように目を伏せたが、素直に彼の手に自身の手を重ね、否定はしない。
触れた手は、ほんのりと温かかった。冷え性だと言う彼女はよくカイロを持ち歩いているので、それのお陰かもしれない。清春の手が彼女の温度を冷やしてしまうかと思ったが、繋いだ手はじんわりと温度を上げ、むしろ温かくなった。
清春は手を繋ぐことが好きだった。温かくて手がかじかむ心配もない。手が冷えると霜焼けを起こし、痛痒くなる。それを知っているからこそ、余計に彼女の体温にほっとした。
「ひなぁ。初詣終わったら、雛子の家に行こう」
「どこか寄りたいところとかないの?」
「寄ってもいいけど、こたつが恋しい」
そう言えば、本当に気に入ったんだね、と雛子が笑う。清春は自宅があまり好きではない。理由は至極単純で寒いからだ。何かと理由をつけては、家の外で過ごす。けれど、雛子の家は好きだった。これも理由は単純で、温かいからに過ぎない。
「じゃあ、家でゆっくりしようか」
雛子が目を細める。そういう表情をすると、彼女は途端に幼い印象になった。化粧を落とせば、もっと幼くなることを知っている。童顔なのだと、雛子は恥ずかしそうに言っていた。清春は彼女がスキンケアをするときの、ヘアクリップで前髪を留めた顔が好きだった。広い額が間抜けでちょっと可愛い。そう言えば、雛子は薄っすらと頬を赤く染めて、からかわないでと拗ねた表情を見せた。
清春は、自身が恋人と付き合う理由が、あまり世間では褒められた理由ではないと知っていた。不誠実だと言われるものだとは理解していた。それでも、雛子のことを蔑ろにしてきたつもりはなかった。彼女と過ごす時間は楽しく、雛子もまた、楽しんでくれていると思っていた。
そんな楽しいばかりの関係に違和感を覚えたのは、喧嘩のようなことをしたときだった。
清春は彼女の物言いが気に入らなかった。甘えだと思ったし、卑怯だとも思った。だからそれをそのまま口にしたのだ。剥き出しの言葉をそのまま投げるのは彼の悪い癖だと友人に指摘されたことはあれど、清春自身はそれを気にしたことはなかった。
自身のそうした振る舞いを初めて後悔したのは、彼女があからさまに傷付いた顔をしたからだ。そうしてしばらく連絡を取らなかった。元々清春の方から連絡を取ることは少ない。彼女からの連絡がなければ、自然と距離が生まれた。
雛子がいなければ、当然ながら手を繋ぐことはない。身を寄せあってお互いの体温を頼りに寒い寒いと言い合うこともない。清春はその間、寒くて仕方がなかった。手のひらが冷たくて、凍えそうだと思ったのだ。
堪らず雛子のマンションで彼女の帰りを待てば、彼女はすぐに真冬に外にいた清春の身を案じた。そこでようやく、彼は自分の『優しくなさ』というものを理屈ではなく、もっと深いところで理解した。そして初めて、優しくしたいと思ったのだ。彼女の泣きそうな顔が、思った以上に堪えた。
意識的に雛子のことを気遣うようにした。なるべく優しくできたらいい、なんて殊勝なことを考えた。彼女と過ごす今を楽しいものにしかった。清春は過去を大切にし、反省もするが、あまり未来のことは意識したことがなかった。
そんな彼が、初めて未来のことを考えたのは、友人の結婚式に出席したときだった。その日一日、心ここにあらずといった様子だっただろう。ただただ、目の前の幸福に打ちのめされていた。誰もが笑って新郎新婦へ祝福を送っていた。その親族、友人たちは、心から二人の幸せを願っていた。二人がどれだけ周囲の人に愛されているのか、よく分かる光景だった。
二人はこの先の未来を語った。支え合って生きていくのだと。いずれはきっと子も儲けるだろう。そんな絵に描いたような幸福が、けれど実際には早々ありはしないそれが、目に浮かぶようだった。
無理だ、と清春は思った。考えるよりもまず先にそう思った。自分には無理だ。一生縁のないものだ。遠い世界の夢物語だ。だからこそ、幸せになって欲しいと願う友人二人にはよくよくそれが似合っているのだろう。
そして、ふと気付いてしまう。きっと雛子にも、そういう幸せが似合うのだ。
誰かと手を取り合い、支え合って生きていく。いつかはその両腕に、脆くて無垢な赤ん坊を抱くのだろう。愛しそうに目を細め、笑いかける彼女が目に浮かぶようだった。きっと、彼女が母親ならば子どもは当たり前のように温もりを享受し、すくすくと育つに違いない。―――――その隣に、自分はいない。否、いられない。
雛子には未来がある。当たり前ではない幸福を手にする権利がある。幸福の訪れは、早ければ早いだけいいだろう。自分の存在は、それを阻害するだけだ。彼女の幸福を願うなら、なるべく早く離れた方がいい。きっと今なら、簡単に手離せるから。
別れなければ、と思った。すぐにでも連絡を取り、別れた方が彼女の為だと思った。けれどなかなか踏ん切りが付かず、いつものように週末の予定を尋ねる雛子からの連絡をかわし続けていた。そうまでして、ようやく気付いた。
どうやら清春は、思った以上に雛子のことを好きになっていたらしい。
そう自覚してしまえば、尚更別れなければいけないと思った。彼女の時間を、無駄に消費させる訳にはいかない。時間は有限だ。もっと大切に使わなければいけない。別れを告げて泣かれたとき、清春は生まれて始めて途方に暮れた。
雛子と別れて、清春は休日の過ごし方に困った。どうやって時間を潰せばいいのか分からない。彼女と過ごしたのはほんの数ヶ月であるのに、いつの間にか雛子と会うことが当たり前になっていた。
雛子と別れたことを、何故だか伝える前から友人には悟られていた。見透かされているようで落ち着かなかったし、呆れたように溜息を吐かれるので清春は少し腹が立った。
「おまえはさ、どこにでもいるような普通の人間なんだよ」
雨に打たれたって、特別な容姿を持っていたって、普通の人間なんだよ。言い含めるような言葉は、どこか哀れみが込められているように感じた。
「そうでなければもっと楽に生きられただろうに。普通の人間だから」
その後に続けられた言葉を、清春はまるでとどめのように感じた。
「寂しいと思うことを、素直に認めることもできやしない」
冗談みたいな言葉だった。清春は寂しいなんて思ったことがなかった。彼は人に恵まれていた。その自覚があった。母親は可愛い可愛いと気まぐれに抱きしめてくれたし、ろくでもないのばかりだったが、時折母親の恋人にも彼によくしてくれる人がいた。高校生の頃のバイト先の店長なんて、喧嘩別れした女の息子を、未だに気にかけてくれている。人に恵まれていると気付かせてくれた友人は、今も友人として付き合ってくれていた。難しい顔ばかりしている祖父母が、いつも自身を心配してくれていることにも気付いていた。職場の先輩や上司にも可愛がられ、最近出来た後輩ともそこそこ良好な関係を築いているだろう。
清春は恵まれた半生を生きてきた。母親の行いは世間的に同情に値すると理解していても、有り余るほど恵まれていたと思っている。今だってそうだ。彼の人生に、不足なものなど何もない。
けれど、けれど。ここに今、君がいない。
友人の言葉を咄嗟に否定できなかったのが、どうやら全ての答えだった。
どんなに恵まれていたとしても、清春は雛子がいないというただそれだけの些細なことが、堪らなく寂しかったのだ。
だから、もう許してくれ、と膝をついて乞いたいとさえ思った。自身のアパートの部屋の前に立つ雛子の姿を見つけただけで、手を伸ばしたくて堪らなくなってしまう。あらゆる事を自覚してしまった今、彼女を突き放すことがどんなに困難か、想像に難くなかった。




