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 どんなに悲しくて苦しくて、過去に立ち止まっていたとしても、時間は全ての人に平等に流れていく。それが人にとって救いになることもあれば、責め苦になることもあるだろう。雛子は時の流れに呆然と呑み込まれながらも、どこか現実感がない。彼女の気持ちは三月の夜で止まったままだった。これだから妹に恋愛脳、と言われてしまうのだろうなあ、とぼんやりと考える。

 恋をしていた期間の倍の時間、人は失恋を引きずると何かで聞いたことがあった。そうなると、雛子は向こう二十年は清春のことを思い出すのだろうか。途方もなく感じてしまい、同時に確かにこの先彼のことを吹っ切れそうにない自身を自覚するのだ。


 春がくれば、すぐに夏がくる。今年の春はどうやら短いらしく、四月も末になると日中は薄着でも過ごせるようになってきた。それでも夜にはまだ少し、肌寒さが残る。会社では脱いでいたジャケットを羽織り、職場の最寄り駅へ向かう。

 自動改札機の前でICカード乗車券を入れているパスケースを用意していると、誰かを呼ぶ声が聞こえた。こちらの方角へ向けられているように聞こえ、雛子は反射的にきょろきょろと辺りを見回す。


「すみません………ああ、やっぱり」


 目の前に駆けてくる男性の姿を認め、雛子は思わず息を飲んだ。男性は迷わず駆け寄り、雛子の前に立つ。彼女は彼のことをきちんと覚えていた。


「お久しぶりです」


 雛子は驚きから目を見開き、咄嗟に言葉を返せなかった。男性は以前清春から友人だと紹介されていた夏目聖司だった。彼は以前会ったときと同様清潔感があり、穏やかな人柄を感じさせる表情で雛子に微笑みかける。以前は私服を着ていたが、今日は仕事帰りなのだろう。スーツを着ていた。


「住吉さん?」

「あ……あ!すみません。驚いてしまって。お久しぶりです」


 慌てて頭を下げる。そんなに畏まらないで下さいね、と聖司は苦笑した様子だった。


「職場がこの近くなんですか?」


 聖司の問いかけに雛子は素直に頷いた。今から改札を通ろうとしていたので、これから帰るところだと予想したのだろう。


「あの、夏目さんも?」

「会社は違うんですけど、今日だけ仕事でこちらに来てまして。今帰りですか?」

「はい」

「俺もなんです」


 聖司はにこり、と笑った。いかにも誠実そうで好感の持てる笑顔だった。けれど、雛子は引きつりそうな顔を堪えるの必死だ。別れた恋人の友人など、出来れば顔を合わせたくなかった。何を話せばいいかも分からない。

 この場で早く別れたかったのだが、彼の最寄り駅が雛子の住む駅と同じ方向であることは以前共に食事をしたときに聞いていた。雛子の最寄り駅より、二駅先になるらしい。そうなれば自然と共に改札をくぐる方向に状況が進んでいく。ホームに立ってから、会社に忘れ物をしたとでも言ってその場から逃げれば良かった、と甚く後悔した。


「あの、千穂さんはお元気ですか?」


 並んで歩きながら、気まずさを誤魔化す為に雛子の方からそう問いかけた。


「元気にしてますよ。住吉さんともまた会いたいと言っていました」

「わ、嬉しいです。私もまたお会いしたいです」


 それは素直な気持ちだった。物怖じしない千穂の性格は雛子にとって憧れる部分であり、話していてとても楽しかった。清春のことで及び腰になっているが、彼女という人とは仲良くしたかったと今も思っている。


 ホームで二人並んで立っていると、普通電車が到着した。雛子の家に今から帰ろうとすればこの電車が一番早い。しかし、聖司の最寄り駅には、この次の電車の方が早く着く。どうするのだろう、と思えば彼はここで雛子を見送るつもりはないらしく、結局促されて共に普通電車に乗り込んだ。

 特急電車であれば混んでいるが、普通電車であれば帰宅の多い時間でも空いており、二人並んで空いている席に座る。座ると力が抜け、自然と緊張も少しほぐすことができた。二人が電車に乗り込むと、電車はしばらくして、ゆっくりと動き始める。


「………住吉さんは、お元気ですか?」


 雛子の心臓が、嫌な鼓動を立てる。清春とのことを、彼の友人である聖司はどこまで知っているのだろうか。


「はい、季節の変わり目に少し風邪を引きましたけど」


 雛子は当たり障りのないようにと心がけてそう答えた。表情は、声のトーンは、言葉選びは、何も問題ないだろうか。彼に違和感を抱かせるものでなければいい。


「良かった」


 社交辞令というよりは、本当に安堵したように聖司は目を細めた。清春とは種類が違うが、聖司もまた整った顔立ちをしている。心からの笑顔に雛子は思わず見惚れてしまった。


「あいつが心配していたので、見かけて声を掛けてしまいました。急にすみません」


 聖司の言う『あいつ』が誰かなど、説明されずとも明白だった。雛子は胸を高鳴らせる。気にかけてもらえることが嬉しかった。しかし、それからそんな自分を恥じる。もう振られてしまっているのに、何を喜んでいるのか。同時に、聖司は別れてしまったことを知っているのだろう、と察した。

 そんな雛子の様子の変化に気付いたのかもしれない。聖司は少し困ったように眉尻を下げた。


「困らせてしまいましたね」

「いえ、そんな…………」


 困惑しており、逃げたいと思っていたことは事実なので、雛子ははっきりと否定できなかった。少し悩んだ末に、どうせ知られているなら、と雛子は尋ね返す。


「…………仁見くんは、元気にしていますか?」


 体調を崩していないか、きちんとした食事をしているか。彼が一人のときは適当に食事を済ませていることを知っていたので、少し心配だった。


「意地張って平気そうにしてますけど、何となく寂しそうにしてますね」


 聖司の言う寂しさの理由が自分だったらいいのにと、一瞬でもそう考えた自分を、雛子はひどく浅ましく感じた。


「仁見から恋人を紹介されたのって、住吉さんが初めてだったんです」


 雛子は目を見開いてゆるりと顔を上げる。聖司は柔らかく微笑んで彼女を見下ろしていた。


「だから、安心しました。これまで素直にあいつが甘えているの、見たことがなかったから。たぶん、酷いことも言ったでしょうし、酷いことをしたのかもしれません。でも」


 聖司の言葉にどうしても雛子は期待を抱いてしまう。雛子は清春といて幸せだった。ずっとそばにいたかった。彼が笑ってくれると、それだけで満たされた。その、半分だけでもいい。十分の一でも構わない。清春にも、同じように感じていて欲しかった。


「きっと住吉さんのことが、本当に好きだったんですね」


 穏やかな物腰に相応しい柔らかい言葉でそう言い切ると、聖司は立ち上がるように雛子を促した。どうやら気付かぬ内に彼女の最寄り駅へと辿り着いていたらしい。お気を付けて、と声を掛ける聖司に慌てて会釈をして、降車していく人々に流されるように雛子も電車を降りた。ほとんど癖のように無意識に改札を抜け、駅の外へ出る。駅から一歩、二歩、とたどたどしく進み、三メートルほど歩いたところで駅の方へ振り返った。


「………………言って欲しかったんだよ」


 届くはずがないのは分かっていて、唇から零れ落ちた。

 雛子は清春のことが好きだった。恋が始まったのは、十年も前だ。十年前の彼に、雛子は恋をした。けれど、一緒にいてどんどん好きになっていったのは、今の彼だ。中学生の頃より少し柔らかい印象になったと思う。そんな清春に、中学生の頃には絶対言わなかったような少し甘えた声で『ひな』と呼ばれるのが好きだった。彼からの言葉がなくても、一緒にいられるだけで幸せだった。


 いつか好きになってくれたらいいな、と夢を見ていた。焦って、心地良い関係を壊したくはなかった。ただ、それだけで、本当はずっと彼の心が欲しかった。もしも清春が本当に雛子を好きだと思ってくれているのだとしたら。


 もう少しだけ足搔いてみてもいいだろうか。みっともなく縋る勇気を持てるだろうか。彼の全てを理解することは出来ないかもしれない。けれど、理解したいと、そう望むことは許されるだろうか。


 怖気づきそうな自分を叱咤して、雛子は自身を奮い立たせた。




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