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少女たちの明るい声が、雛子の横をすり抜けていく。はしゃぐようにして笑い合い、改札へ向かう少女たちは真新しい制服に身を包んでいた。新入生なのだろう。ブレザータイプのその制服は、確か職場の近くの女子校のものだった。懐かしいな、と目を細めながら雛子は少女たちの背中を見送る。彼女も高校の頃は友人とあんな風にはしゃいでいた時期があった。中学の頃は何かと思い悩んでいたが、高校では友人に恵まれ、楽しい日々を過ごしていた。
自宅の最寄駅まで辿り着けば、駅前の桜の木はすでに花を散らしている。三月の終わりから四月の始めにかけてであれば、桜も満開で、ひらひらと散りゆく花びらが美しかった。それだけに、散り終わった木がどこか物悲しく思える。桜にとっては当然の営みで、きっとそう感じるのは人間の感傷でしかないのだろう、と雛子は思った。
マンションのオートロックを解除して、自宅の部屋の鍵を開ける。玄関そばにある電気を点けて、パンプスを脱ぐと開放感に包まれた。春になってパンプスを新調したのだが、どうにも小指が痛くなる。少しサイズが大きいのかもしれない。その内慣れるかと思っていたが、そろそろ靴底を買いに行った方がいいだろう。いい加減この痛みから解放されたかった
部屋着に着替え、鞄を片付けてスマートフォンを取り出す。すると、着信を知らせるマークがついていた。メッセージアプリの受信通知ならばいつものことだが、着信は少々珍しい。
確認してみれば、高校時代からの友人からだった。彼女は就職と同時に上京し、なかなか会うことができない。その為、こうして時折電話がかかってくることは珍しくなかった。
雛子は夕飯を後回しにして、テーブルの前に座る。こたつは早々に片付けてしまったのだが、足元が冷える為にひざ掛けを用意してベッドにもたれかかった。こちらから折り返し電話をすれば、すぐに友人が電話に応じる。
「もしもし」
『あ、雛子?ごめん、もしかして忙しかった?」
「ううん、駅から家に帰ってるとこだったから着信に気づかなかっただけなの。ごめんね」
『ああ、そっかそっか。それならいいんだけどねー』
明るくさっぱりした気質の友人は、そう軽やかに答える。向こうでスマートフォンに向かってうんうん、と頷いている彼女の姿が見えるようだった。
アプリのメッセージではよく連絡を取っているが、電話は久しぶりだった。話の内容は他愛のないもので、彼女のちょっとした失敗談や、職場での愚痴、先日知り合った男性と連絡を取り合うようになったこと。一昨年、長く付き合った恋人と別れてから、彼女から男性の話を聞かなくなっていたので、吹っ切れたならよかったな、と雛子は思った。
『雛子は?』
「え?」
『彼氏とは、仲良くしてる?』
雛子は咄嗟に息を飲んだ。すぐに答えられなかったことに失敗したな、と思う。
「あ………えっと、振られちゃった」
あはは、と笑いながら、できるだけ軽く聞こえるように気を付けて口にした。えっ!と受話口の向こうから驚いたような声が聞こえる。別れてからそろそろ一ヶ月が経とうとしていた。色々と相談に乗ってくれていたので、報告しようとは思っていたが、まだできていなかったのだ。
『そうなのかー……』
「うん、でももう一ヶ月近く経ってるし」
だから大丈夫、という意味を込めてそう口にした。
『でも好きだったんでしょ』
「………うん」
それはどうあっても否定できない事実だった。仁見清春は雛子の憧れだった。中学の頃の彼をずっと忘れられなかった。その思いは再会しても膨らむばかりで、共に過ごす時間が、ただただ愛しかった。
受話口から、鼻を啜るような音が聞こえる。
「どうして泣くの?」
軽く笑うように、雛子は問いかけた。
『うぅー、ごめん。悲しいのは雛子なのに』
それを認めたくはなくて、雛子は何も答えることができなかった。心の柔らかい部分が、剥き出しになってしまう。
『もっと一緒に、いたかったよね』
ぁ……と吐息のような声が、雛子から漏れた。剥き出しになった柔らかい部分を、労るように撫でられた心地だった。傷を付けないように触れるそれが温かくて優しくて、心の箍が緩む。
雛子は忘れようと思った。自身は振られてしまったのだ。追い縋るような見っともない真似は出来ない。それなら雛子に出来るのは、忘れるよう努力することしかない。
まだ冷えていた三月の内にこたつを片付け、彼が置いたままにしていた歯ブラシや日用品も捨てた。清春が愛用していたマグカップも、一緒に撮った写真も、思い出と一緒に捨てた。スマートフォンに入っている、写真のデータだけは、今も消去できなかった。
そうしてようやく、平気なふりが出来た。過去を過去に出来る気がした。いつかは全て思い出になって、あんなこともあったなあって笑うことが出来る気がした。何も考えないようにしていたのだ。
けれど今の彼女の一言で、雛子は変えようのない事実に直面する。
もう自分は、彼の隣に立つ資格を永遠に失ってしまったのだ。
「…………ぅあ、あ………ごめん……」
膝の上に顔を埋めて、呻き声のような嗚咽を漏らす。良いんだよ、と口にする友人の慰めが嬉しくて、有り難くて、雛子は余計に涙が溢れて止まらなかった。
少しでも涙が止まってくれるように、顎を逸らして顔を上に向けた。眩しい蛍光灯の光に少し視線を下げると、カレンダーが目に飛び込んでくる。ほんの数ヶ月前に、そこへ喜々として書き込んだ予定を思い出した。
一緒に同窓会、行きたかったなあ。
「住吉さんはさあ、自分の意見とかないの?」
そう言ったのは宝田美奈だった。彼女は不機嫌そうに肩に掛かった自身の髪を手で払う。はっきりとした性格の彼女にとって、雛子のように意思薄弱なタイプが癇に障るのは、ある意味当然の成り行きだと思えた。
話自体は些細なことだった。美奈が攻撃的な態度を見せたのは、そのとき何があったからではなく、日々の苛立ちが積もりに積もってしまったからだろう。
雛子は自分の意見がない訳ではない。ただ、大抵のことはまあいいか、で納得することができ、自分の意見を発することが苦手だった。大きな問題がなく、物事が円滑に進んでくれるならばそれでいい、と言葉を飲み込んできたのはある意味で雛子の人生への怠惰だった。
だからこそ苛立たしげな美奈の言葉が、心に刺さる。自身の弱さと卑怯さを、目の前に突き付けられるような心地だった。
「だから男にも振られるんじゃないの」
ぼそり、と美奈は小さく呟いて、自分の席へ戻っていった。雛子は俯いてスカートの裾を握りしめる。唇を噛まなければ、涙が溢れてしまいそうだった。時間を確認すれば、昼休憩が終わるまで、まだ十分ほどある。雛子はハンカチだけを持ってトイレに向かった。
個室に入って鍵を閉め、口元にハンカチを押し当てる。そうしなければ嗚咽が漏れてしまいそうだった。
雛子は悔しかった。自身に恋人が出来て振られたことを、美奈に気づかれていることは知っていた。そんな自分を笑われているのだろう、とも思っていた。けれどそんな、こんなところでそれを引き合いに出すのは卑怯ではないかと、雛子は思う。
悔しい。ただただ、悔しかった。けれど何より悔しかったのは、全て図星だったからだ。殊勝なふりをして言葉を飲み込んできたのは、雛子の姑息さだ。流されることが楽なのだと、よくよく彼女は理解している。主張を、反論を怠ったのは雛子の甘えだ。
美奈の言う通りだった。だから振られて、別れたくないと追い縋ることも出来なかった。そんなことは、雛子自身が一番よく理解していた。




