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『ねえ、写真撮ろうよ』
クリスマス前の祝日のときだった。駅前のイルミネーションを見に行き、そう提案したのは雛子である。元々彼女は写真を撮ることが好きだった。出掛けた先で思い出として撮ることもあれば、外食や、家で作った料理の写真を撮ることもある。前者は記念で、後者は上手く作れた達成感から写真として残していた。
対して、清春はあまり写真に興味がないようだった。写真を撮ろう、という雛子に不思議そうに首を傾げていた。
『どうして、雛子はそう写真を撮りたがるんだ?』
『思い出だよ。あとから見ると、このときこんなことがあったな、あのとき仁見くんとこんなこと話したな、とか思い出せて楽しいよ』
ふうん、と清春はあまり気のない返事をした。イルミネーションが思っていた以上に綺麗だったので、雛子は感動して写真を撮りたい、と思った。しかし、当然彼女に無理強いするつもりはない。彼と一緒に過ごしたという、確かな証のようなものが欲しいという気持ちもあったのだが、それで清春の気分を害しては元も子もない。
徐々に自分の発言に失敗したかもしれない、と焦りを感じてしまった雛子だが、彼女がそれ以上に何かを言い募る前に、清春が楽しそうににっこりと笑った。
『仕方ないなあ、ひなちゃんは僕のことが好きだからな』
カメラの代わりに取り出していた雛子のスマートフォンを、清春が彼女の手から取り上げる。彼はすぐにインカメラに切り替えて彼女を抱き寄せた。突然温もりをすぐそばに感じられて、雛子は心臓が高鳴った。そろそろ慣れても良いはずなのに、こうも急に来られると未だに緊張してしまう自分が、少し可笑しかった。
『あーでも、自撮りだとイルミネーションがほとんど分からんなあ』
清春が撮ってくれた写真は、二人の顔がアップで映っていて、背景は夜の中で人工的な光が光っていると辛うじて分かる程度にしか映っていない。それでも雛子は嬉しかった。初めて二人で撮った写真だったからだ。
次の休みには、雑貨屋に立ち寄って写真立てを買った。嬉しくて、嬉しくて、いつも眺めていたかった。二人で選んだ写真立ては、木目調のシンプルなデザインで雛子の部屋の戸棚の上にぴったりと収まった。
雛子は写真を眺めてはいつもにこにこと笑みを浮かべていた。そんな彼女に、決まって清春はこう言うのだ。ひなは僕のことが好きだなあ。からかうというよりはどこか面白そうに彼がそう言うので、彼女は少しだけ気恥ずかしそうに笑ってそうだよ、と答えていた。
――そんな写真立てを、雛子は戸棚の上でそっと伏せた。
あんなに楽しかったのに。あんなに幸せだったのに。こんなにも、好きなのに。もうあの満ち足りていた日々は、遠いどこかへ立ち去ってしまったのかもしれない。この写真のような日はもう訪れてはくれないのだろう。
確かに自身から離れていこうとする清春の気配を感じ取って、雛子は伏せた写真立ての背を撫でた。
ついに清春と最後に会ってから五週目を迎える土曜日の夜だった。その週は、もう彼に会いたいと伝えることもしていなかった。季節は三月半ばを迎え、あと二週間もすれば四月が訪れ、その内に桜も咲き始めるだろう。四月になれば妹の誕生日プレゼントを買いに行かなければならない、とスマートフォンで咲良の好きな家具や雑貨を取り扱うセレクトショップのホームページを見ているときだった。
こたつに足を入れ、観るともなしにテレビを点け、ベッドにもたれかかってスマートフォンを操作していると、突然バイブが鳴り、着信を告げられた。驚いてスマートフォンを取り落としそうになったが、慌てて力を込めて掴み直す。画面には『仁見くん』の文字が表示されていた。
途端に雛子の心臓がどくんと一つ跳ねる。それから、どくどくどくと一気に血の巡りが良くなっていく。反射的に電話に出る勇気が、今の彼女には湧いてくれなかった。けれど、躊躇っている内に通話を切られてしまうことが恐ろしく、すでに風呂に入り、着替えていたパジャマの腹の辺りを縋るようにぎゅっと掴んで、雛子は通話に応じた。
「………もしもし」
『………………………もしもし………』
快活さのない平坦な声が聞こえた。低い男性の声は、電子を通すと聞き取りにくく、同時に不機嫌そうにも聞こえた。
雛子からは何も言えなかった。清春も、しばらく言葉を発さなかった。実際の時間としては短く、けれど彼女の体感としては息苦しくなるほどに長い沈黙だった。先に口を開いたのは、彼の方だった。
『話がある』
重々しく、慎重に告げられた言葉。雛子には予感があった。
『………………出てこられるか』
きっとここが、二人の別れ道だ。
時刻は二十一時を回っていた。雛子はパジャマからジーンズとセーターに着替え、コートのボタンをしっかりと留め、首にはマフラーを巻いた。日中は少々暖かくなってきたが、夜は未だ冬なのではと錯覚しそうなほどに寒いままだ。
雛子の家の近くまで来ている、という清春に呼び出され、向かったのは近所にある公園だった。ジャングルジムと、滑り台と、ブランコ。小さな鉄棒と砂場がある公園だ。そう大きな公園ではないが、小学生以下の子どもたちが遊ぶにはちょうどいいらしく、日中であれば小さな子どもたちのはしゃぎ声が聞こえる場所だ。
もう少し暖かくなれば、夜もベンチにカップルが座って話していたりするのだが、今の季節では彼女を待っていた清春以外、その公園には誰もいなかった。
「こんな時間にごめん。寒いよな」
清春は笑っていなかった。いつも待ち合わせをするとき、彼は雛子の姿を見つけると子どものように無邪気な顔で笑ってくれていた。そんな彼が、今は殊勝な態度で雛子をベンチへ促す。寒いだろ、と言って渡されたホットの缶コーヒーは開ける気になれなくて、座った膝の上で、両手を温めた。
並んだ二人の距離はいつもより拳二つ分の距離が取られていて、どこか冷静な頭の片隅で、心の距離がそのまま表れているんだなあ、と雛子は思った。
あのな、と清春は一言前置く。
「別れよう」
それは、雛子の思った通りの言葉だった。公園に至るまでの道中、彼にそう言われたらなんて返せばいいのだろう、とそんなことばかり考えていた。見っともない真似はしたくない。別れるときでさえ、彼によく思われたい。
けれど、実際にその言葉を告げられた瞬間、返事よりも早く目頭が熱くなり、あっという間に涙が溢れ返った。大粒の涙が頬を濡らす。
「……………ど、してっ。私、何か、嫌なこと、したのかなあ……」
先程まで、夜風に当たって真っ赤になるほど鼻先が冷えていたが、今の雛子は込み上げてくる涙で顔が熱くて仕方なかった。ぎゅうと縋るように缶コーヒーを握りしめる手の上に、ぼたぼたと涙が零れ落ちていく。
「そうじゃない」
返す清春の言葉は思ったよりもはっきりとしていた。それならどうしてと思い、しかしそれを口には出せなかった雛子に、彼が言う。
「雛子と付き合い出して、楽しかった。何でか僕のことがすごく好きみたいで、居心地も良かった。そう、居心地が良かったんだ。スマホで連絡取り合って、大体週一くらいで会って、そういうサイクルが僕の中で出来上がってて、何となくこの先もずっとそうして一緒にいるんだろうって思えた。けど僕は何にも考えてなかったから」
清春の骨ばった手には何も握られておらず、素肌がそのまま風に晒されていた。指を組んでいても、温もりはそう感じられないだろう。
「この間、結婚式に出て、なんというか、度肝を抜かれたんだ。世の中にこんなものがあるのかと思った。あんな、沢山の人に祝福されて、沢山の人に感謝して、沢山の人の前で一緒にいることを誓い合って。――ぞっとした。僕には無理だ。あまりに世界が違い過ぎる」
雛子も結婚式に出たことはある。従姉妹と、友人の結婚式だった。当然彼の言う光景も目にした。彼女はそのとき、なんて素敵だろう、と思った。いつかは自分も、こんなに素敵な結婚をしてみたいと思ったのだ。
似たような光景を見た彼らは、けれどどうしようもなく、その受け止め方が違った。
「僕は結婚なんかできない。したくない。二十代後半って、将来の為に一番大事な時期なんだろ?その時間を、未来のない僕は消費させられない。だから、雛子とは付き合えない」
あまりにも一方的な別れの言葉。話し合いでも何でもなく、清春はすでに自身の中で結論を出し、それを雛子に伝えている様子だった。
雛子は何かを口にしようとして、一度言葉にならずに口を噤んだ。寒さによる白い息だけが、外灯の下で空気に漂う。唇をわななかせて、それでも彼女は何かを言わなければと足掻く。
「………消費じゃないよ」
「消費だろ。時間が無駄に過ぎるだけだ」
悪あがきのような雛子の言葉を、清春は迷わず否定した。
「………………ただ、好きなだけなの。一緒にいたいだけなんだよ」
「一生結婚もせず、ぐだぐだとか?僕は雛子のことに何の責任も持てない。結婚なんて一生するつもりはない。雛子のことを幸せにはできない。何より」
彼は少し言い淀んだ。雛子は彼が言い淀むのを、初めて聞いたかもしれない。思わず顔を上げてようやく清春の顔を見つめれば、彼はこちらに顔を向けることなく、視線すら逸らして絞りだすように口にした。
「子どもだけはいらない」
どうして、と雛子の言葉は音にならなかった。責めたかったのではない。ただ、純粋な疑問だった。彼女は清春が、子ども好きだと思っていたのだ。だって彼は、時折子どもを見かけては目で追っている。愛しそうに目を細め、ともすれば今にも泣き出しそうな顔だとさえ思った。
「頭ではちゃんと分かってるんだ。あの人はろくな母親じゃなかった。父親なんて誰かも分からない。僕はあの人に捨てられた。それでも思うんだ。可哀想になあって」
雛子はそれ以上聞くのが怖かった。心臓が、嫌な鼓動を刻む。早くて、落ち着きなくて、不安を煽るように。
「子どもがいなかったら、きっとあの人はもっと簡単に幸せになれたと思うんだ。ちょっとした間違いで子どもなんか産んじまって、可哀想に。――こんな風に考える奴が、人の親になんかなれるはずないだろ」
きっと自分が親になったとき、同じように自分のことも許してしまうだろう、清春はそう語った。雛子は何も言えなかった。雛子は平坦で、だからこそ幸福な人生を歩んできたという自覚がある。ありあまるほどの祝福の中でこの世に生を受け、両親に愛されて育ってきた。姉だからと我慢させられる事こそ多かったが、素直に懐いてくれる妹のことは可愛く、それもあまり苦ではなかった。雛子にとって家族がいることも、いずれ自身も家庭を持ち、子どもを愛するということも、すべて当たり前に存在している未来の可能性だった。
根本的に考え方が違う。生まれも育ちも違う。雛子には、清春の悩みや不安や、今ここで彼女を突き放そうとするその気持ちを、全て理解することなどできない。
同時に、悔しいと思った。彼の言葉から、幼い清春が部屋に一人でいるところを想像した。ああ、ああ、ああ。もしもそこに私がいたならば、きっとあなたを抱きしめてあげられたのに。もう嫌になっちゃうくらい、あなたを抱きしめてあげることができたのに。
「雛子といて、本当に楽しかった。だから雛子には、幸せになってほしい」
清春はまるで、雛子の為だというように、綺麗な言葉を口にした。理想的で美しい別れ文句と言えるだろう。雛子の幸せは、彼がいなければなり得ないのに。
けれど雛子はそれを口にして、まるで美談の如く別れようとする彼を、詰ることさえできはしなかった。
だって彼女は惜しみない慈しみの中で育まれた。彼の言う違う世界の住人だった。そんな人間の言葉が、心に届くとは思えなかったのだ。




