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風呂から上がり、雛子は温まった身体が冷えてしまう前に、スキンケア用品を詰めた籠だけを持ってこたつの中に潜り込んだ。三月を迎えても、夜の気温は未だ冬のそれだった。濡れた髪が冷たくてぶるりと身震いしたが、どちらかというと乾燥肌の為に髪を乾かすよりも先にスキンケアをしなければならない。顔が突っ張って辛いことになってしまうのだ。
コットンに化粧水をとり、肌に馴染ませながら、こたつの上に置いていたスマートフォンのホームボタンを押す。すると、メッセージアプリから通知が届いていた。本文の内容も少しだけ表示されており、そこには『ごめん』の文字が見える。発信者の名前を確認して、雛子は大きく溜息を吐いた。
発信者は清春だった。風呂に入る前に、週末に会いたい、とメッセージを送っていたので、それを断られたのだろう。開いて断りの言葉ときちんと向きあえば、きっともっと凹んでしまう。そう思うと、雛子はアプリを開くことができなかった。
落ち込む気持ちを誤魔化すように、まだしっかりと化粧水が馴染んでいなかったが、早々に乳液を手に取る。多少乱雑に肌に伸ばして、顔を両手で覆った。
清春とは、もう三週間会っていなかった。たかが三週間、されど三週間。以前までほぼ毎週会っていたことを思うと、雛子の心は更にずしんと重くなった。
一週目は、清春は結婚式に出席していた。それは以前から聞いていた話なので、雛子は特に何も思わなかった。次の週に週末の予定を聞いて断られたときは、忙しい日もあるだろう、と寂しいが納得していた。
しかし、その頃からどうにもメッセージのやり取りをしていても、歯切れの悪い返事ばかりが届く。はっきりした彼にしては珍しく、普段の明るさも感じられない。
そして、今回の断りのメッセージが届いた。雛子の中の違和感が、確かな形を持ってしまう。もしかして避けられているのではないだろうか、と。
「私、何かしたかな……」
顔を覆っていた両手を離し、溜息をもう一つ吐いてようやくスマートフォンのロックを解除した。アプリを起動させて清春のページを開くと、案の定そこには断りの言葉が並んでいた。
三週間前の日曜日、一緒に過ごしたときは普通だったと思う。スーパーから帰って雛子の家でシチューを作り、いつものように一緒にDVDを観て過ごした。
彼の母親の話を聞いて、雛子は甚く動揺してしまったが、清春は早々にその話を終わらせ、いつも通り快活な笑顔を見せていたのだ。彼が触れない限り、自身からそのことに突っ込むのも不躾ではないかと、雛子はそれ以上彼とその話題をすることはなかった。
来週は会えないけど寂しくて泣くなよ、と清春はからかうように笑って帰っていった。いつも通りの彼だったと思う。その次の日の朝には、無事に会場に着いたという連絡さえくれたのだ。けれどもしかしたら、自分が気づかない内に彼に嫌われるようなことをしてしまったのだろうか。考えると悲しくて、苦しくて、辛かった。
本当にただ、忙しいだけならいい。けれどもし、意図的に避けられているのだとしたら。
雛子にとって何より恐ろしい可能性を考え、それを振り切るために髪を乾かそうと、彼女は立ち上がった。
会えなくなって四週間目の日曜日の誘いすら断られ、雛子はとうとう布団の中でスマートフォンを握りしめて泣いた。これまでのことを思えば、最早避けられているかもしれない、という恐怖は確信へと変わってしまう。
メッセージの返信はあからさまに遅くなり、内容もどうにも素っ気ないような気がする。被害妄想のようなものだろうか。もう雛子にはそれもよく分からなかった。
その四週目の日曜日、不安な気持ちを誤魔化すように、雛子は妹の誘いで駅前にある先週出来たばかりのパンケーキの店に来ていた。家にいてはどうしても清春と過ごしていたことを思い出して落ち込んでしまうので、普段は強引とも言える咲良の誘いは有難かった。
「お姉ちゃんが空いてて良かった。すごい並ぶから、友達誘いにくかったんだよね。待つの平気な子はパンケーキに興味ないって言うしさ」
パンケーキは一食分のボリュームがあったので、二人でメープルシロップの掛かった甘いタイプと、卵やソーセージの乗ったおかずのようなタイプを一つずつ注文し、半分ずつに分ける。寒い店の外で一時間強も並び、ようやくパンケーキにありつけたので、喜びも一入だった。先に卵の乗っているタイプを口にすれば、柔らかなパンケーキと香ばしい卵やソーセージの美味しさが身に沁みる。昼食代わりに、と思って来ていたので、お腹が空いていたこともあり、余計に美味しく感じられるのかもしれない。
「お姉ちゃん、甘いのも美味しいから!早く食べて!」
「分かったから、ゆっくり食べさせて」
心底嬉しそうににこにこと笑いながら妹が促す。少々強引なところはあるが、こういうところが素直で憎めないなあ、と姉は思った。
お店は白と木目を基調としており、全体的にゆったりと落ち着いた雰囲気だ。人気店で人が多く賑わっているが、あまり騒がしい印象はない。テーブルには、ソファのように心地のいい椅子が置かれており、リラックス出来る。
ナイフとフォークを両手にそれぞれ持ち、少しずつ切り分けて口に運んで行く。咲良は元々甘党で、メープルシロップがたっぷりかかったものの方がお気に入りのようだ。
しばらく味の感想を言い合いながら食事をしていると、妹がふと口を開いた。
「そういえばさあ、先月くらいだけどお姉ちゃんが男と歩いてるの見たよ」
ドキ、と不快に心臓が跳ねた。雛子が一緒に歩くような男性は、一人しか思い浮かばない。
「あれが彼氏?彼氏?ものすごい格好良かったんだけど!お姉ちゃん、写真も見せてくれないしさあ」
「……‥…釣り合ってないでしょ」
清春は雛子の贔屓目を抜きにしても目鼻立ちの整った、美しい青年だった。だからと言って女々しい印象はなく、堂々とした姿は都会にいれば芸能人にも見えたかもしれない。
雛子は好きだから、一緒にいたけれど、好きだからこそ、ふと自分を振り返ったときに釣り合っていないな、と落ち込む瞬間があった。
「えっ、そんなこと言う男なの?」
「言わないよ」
「じゃあ、お姉ちゃんもそういうこと言うのやめなよ。卑屈なの見っともないよ」
咲良の言うことはもっともだった。雛子はそんな自身が恥ずかしくなる。こういうところが、鬱陶しくなってしまったのかもしれない。そう思うとまた落ち込んできた。
「仲良さそうにしてたじゃん。お姉ちゃんのことが好きで付き合ってるのに、そういうこと言うのって失礼だよ」
自分のことを好きだから、咲良の他意のない真っ当な言葉が深く胸に突き刺さった。本当にそうならどんなに良かったことだろう。雛子は楽観的なタイプではない。どちらかと言うと卑屈で悲観的な性格をしていた。だからこそ、清春に好かれているなんて、そんなおめでたい夢を抱くことなんて出来なかった。
雛子はずっと自覚していた。仲良くはしていただろう。清春は優しく、雛子のことを気に掛けてくれて、いつも楽しく一緒にいることができた。けれど、
好きだと言ってもらったことは一度もない。
時々彼が雛子には対し、自分のことを好きかと尋ね、まるでからかうように雛子は僕のことが好きだなあ、と笑うことはあったけれど、彼の気持ちを聞いたことは一度もなかった。
雛子自身、尋ねたこともなかった。彼の本心を知る勇気はなく、また、彼と過ごす日々が幸せで、それを壊すような真似は出来なかった。それで良かった。それでも彼のそばにいられるのなら。
「好きじゃないのかもしれない」
声に涙が混じる。妹に甘えようとする自身の情けなさがまた、雛子は大嫌いだった。




