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 二月も半ばとなった。暦の上では春だとは思えない冷え込みを見せている。暦と現実の差異で風邪を引きそうだ、と雛子は肩を竦めた。むしろ、一月後半から二月に掛けてが冬本番なのではないかと思っている。先週など薄っすらと屋根の上に雪が積もっていた。


「じゃがいもの代わりにかぼちゃを入れると美味いらしい」


 そんな中で、清春が突然そんなことを言い出した。日曜日の朝のことだった。先日から雛子の家に泊まっていた彼は、朝起きて味噌汁の味噌を溶いていた雛子の横で、白米を炊飯器から茶碗に移しながらそう言った。

 未だ眠気が覚めていないのか、清春の瞼は半分ほどずり下がったままで、ぼんやりとした顔をしている。


「何に?」

「シチュー」


 端的な返答を受け、雛子はなるほど、と頷いた。じゃがいもより甘みが増して、美味しいだろうなあ、と想像する。雛子の実家ではじゃがいものシチューばかり作っていたので、一人暮らしを始めてからも自然とじゃがいものシチューばかりを作っていたが、たまにはかぼちゃにしてみるのもいいかもしれない。


「仁見くん、シチュー好きだよね」

「好きだな。先月雛子が作ったので初めて食べたんだが、思った以上に美味かった」

「えっ、あれ?初めて食べたの?」


 先月、というのは二人が初めて喧嘩のようなことをしたときだろう。仲直りをした日、雛子はシチューを食べたくなってその材料を買って帰っていた。もっとも、そのあとで鶏肉が家にないことに気付き、結局次の日にまたスーパーへ出かけることになってしまったのだが。


「給食では食べたことあるが、それ以外では初めてだな」

「家で出たりしなかったの?」

「家はじいさんがああいう、ドロッとした洋食系が嫌いでな」


 そうなんだ、と相槌を打ちながら、雛子は出来上がった味噌汁を椀に移していく。ご飯、味噌汁、目玉焼きにサラダとウインナーを添えたのが今日の朝食だった。雛子は一人だとトースト一枚で終わらせてしまうことも少なくないのだが、清春に変なものは出せない、という気持ちと少々の見栄もあり、彼が泊まりに来た日は簡単なものだが朝からきちんと作ることにしていた。


「じゃあ、ご飯食べたらスーパー行こうか」


 雛子の家には、さすがにかぼちゃは常備していない。彼女がそう提案すれば、清春は嬉しそうに、やった、と笑顔を浮かべた。ついでに本屋にも行きたいな、と考えながらふと彼の先程の言葉を思い出し、何か違和感を覚える。しかし、その違和感が何なのか、すぐには思い至れなかった。


「雛子?どうした?早く食べよう。腹減った」


 清春に急かされ、またあとで考えよう、と雛子はその違和感を振り払った。









 駅前の本屋に立ち寄ってから、近所のスーパーに向かう。近道だと、大通りから外れた路地を歩いていると、ぼすっと間の抜けた音を立てて、清春がつんのめった。手を繋いで隣を歩いていた雛子も驚いて足を止める。


「あっ!すみません!前見てなくて!」


 慌てたような声がして背後を振り返れば、小学校中学年くらいの男の子が清春の背から勢い良く離れていった。どうやら、余所見をしていてぶつかってしまったらしい。そんな男の子のあとを、同い年と思われる子どもたちが何やってんだよー、と笑いながら追いかけていく。


「気を付けろよー」


 ぶつかってしまったという焦りもあったのだろう。大急ぎでその場から走り去っていく小学生の背中に、それを追う子どもたちに、清春はそう緩やかに声を掛けた。見上げた表情がいつも以上に優しいもので、雛子も柔らかく微笑んだ。


「仁見くんって、結構子ども好きだよね」

「んー?そうかな。そうかもなあ」


 どんな表情をしているのか、彼自身にはあまり自覚がないのかもしれない。清春は曖昧な相槌を打った。


「あんな小さい奴がさ、これからいろんなことに揉まれて生きていくことを思うと、なんというか、無条件で頑張れってなるな」


 清春のその回答は、雛子が思うよりもシビアなものだった。しかし、彼の言うことは雛子にも分かる気がした。

 人生は歳を重ねるごとに複雑になっていく。もちろん、あの頃にはあの頃の悩みがあった。抱えきれない悩みに涙を流したことも少なくない。そんな悩みが、この先更に複雑さを増して積み重なっていくのだ。

 だからこそ、かつて自分がそうであった年齢の子どもを見ると、どうか笑っていていほしい、と願ってしまう。この先の苦悩の片鱗を、ある程度想像出来るだけに。


 そんな話をしながら歩いていると、すぐにスーパーに辿り着いた。雛子は真っ直ぐに青果コーナーに向かい、かぼちゃと一緒にしめじも入れると美味しいかな、と考えて一緒に買い物カゴに入れる。今度は忘れずに鶏もも肉も手にとって吟味していると、横できょろきょろと辺りを見回していた清春が、嬉しそうに声を上げる。


「ひなぁ、アイス買おう」


 このスーパーは自動ドアから入って正面に青果コーナーがある。真ん中にお菓子類や調味料などが集まっており、その回りを迂回するように鮮魚や精肉売り場が並んでいた。入ってきた自動ドアとは反対の突き当りにはアイスのコーナーがあり、それを見つけた清春は、意気揚々と指差して雛子に訴えたのだ。


「寒いよ」

「寒いからこそ、あえてこれをこたつで食べたい」


 今アイスを食べることを想像し、肩を震わせた雛子だったが、彼の言葉に心が揺れる。温かいこたつの中でアイスを食べることは、確かに至福のひとときと思えた。

 どれにするか散々悩んだ末、雛子はバニラのカップアイスを選択し、清春はコーンにチョコでコーティングされたバニラアイスが乗っているものを選んだ。


 会計を済ませ、外に出ると強い風で髪とスカートが舞い上がった。一瞬めくれ上がるかと思ってひやっとしたが、少しふんわりと広がる程度で安堵の息を吐く。

 ポケットに財布とスマートフォンを入れているだけで手ぶらの清春がスーパーの袋を持ってくれたので、空いた手を繋ぐ。風が冷たくて、自然と早足になった。


「そういえば、来週だね。結婚式」


 来週の日曜日が、千穂と聖司の結婚式だと、雛子は清春から聞いていた。


「ああ、そうそう。もうすぐだな」

「写真撮ってきてね」


 聞けば、結婚式場の教会で式を上げるらしい。その後はそのまま披露宴を執り行うそうだ。雛子は人並みにドレスのような、華やかでキラキラしたものが好きだった。結婚式はまさにそういったものの象徴のようで、ウェディングドレスにも憧れがある。千穂さんはお色直しもするのかなあ、と想像するだけで楽しかった。


「女の子は好きだよなあ、ああいうの」

「そうだね。見てるだけで楽しいし」


 憧れない女の子の方が少数派なのではないかと思う。子どもの頃は、いつか自分も好きな人と並んでそれを着るのだと、当たり前のように信じていた。それがけして当たり前のことではないと気付いたのは、二十歳を超えた頃だっただろうか。好きな人を見つけるのも、好きな人と付き合うのも、何より好きな人と共に居続けることは、けして簡単なことではない。


「そっか。雛子もいつか着られるといいな」


 現時点で最も共に結婚式を上げる確率が高い相手であるはずの『恋人』が、そんなことを言う。完全に他人事のトーンだった。これはもしかして落ち込むところなのだろうか、と雛子は思ったが、あまりにも軽やかで他意が無さそうに口にした清春を責める気持ちにはなれなかった。

 付き合って半年も経っていない。そんなことで悲しむ資格も詰る資格も、まだ持ち合わせていないような気がした。もしも本当に彼と結婚できるとしても、まだまだ先の話だろう、と雛子は思う。焦ってはいないが、ぼんやりと彼との未来に夢を見ていた。いつかそんな日が来たら、まずは何をすればいいのだろう。両親への挨拶だろうか。

 そこまで考えて、今朝感じた違和感にようやく気付いた。


「ねえ、仁見くん。仁見くんのお母さんって何をしてるの?」


 父親がいないことは知っていた。中学の頃に両親がいないと噂になっており、彼は母親に関しては否定していたが、父親に関しては否定しなかった。再会してからの彼は、時折祖父母のことを話に漏らすが、そういえば母親のことを聞いたことがない。


「さあ?」

「え?」

「小学生の頃から会ってないからなあ」


 驚いて、雛子は足を止めた。


「詳しいことは教えてもらわなかったからよく分からんが、男とどっかに行ったらしい。今頃弟妹でもできてるかもなあ」


 あの人まだ若かったから、彼はそう可笑しそうに笑う。咄嗟に言葉を継げなくて、雛子は溺れるように息が詰まった。雛子に合わせて足を止めた清春は、少しだけ困ったように肩を竦める。


「びっくりさせたか?」

「びっくりっていうか……」

「そう珍しい話でもないと思うけど、雛子にとっては珍しいだろうからなあ」


 何でもないことのように彼が言う。雛子は何を話しても浅はかなことを言ってしまいそうで、その浅はかさが彼を傷つけてしまいそうで、安易に言葉を紡げなかった。

 しかし、言葉にこそできなかったものの、雛子の心に無意識に浮かぶのは憐れみだった。だってそんな、捨てられたも同然ではないのか。 


「僕は可哀想か?」


 清春が問う。雛子は咄嗟になにも言えない。分からないんだ、と彼は相変わらず軽い調子で困ったように言った。


「僕はあの人が好きだから」


 思い出したのは、中学生の頃。彼は同じ言葉を口にしていた。親が嫌いで、憎くて辛いと嘆いた雛子に、彼は言ったのだ。自分は好きだと。何故かって、


「母親だからなあ」


 雛子はあのとき、彼のその言葉に心を打たれたのだ。自身の親だからと、理屈も根拠もなく掛け値なしに親を好きだと言える彼に憧れた。そのときと同じ言葉が、今はまるで違った響きを持って胸に届く。


 子どもは親を選べない。ただ、ひたむきに愛してしまうのだ。自身の親だという、それだけで。






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