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中学生の頃、雛子は清春のはっきりとした物言いが好きだった。見た目は女の子よりも可愛らしく、ずぼらな身なりを整えればお人形さんのようにさえ見えただろう。そんな容姿をしていたのに、彼はいつも堂々としていた。その見目に関する心ないからかいを受ければ、にやにやと笑いながら言い返していた。不服を感じればそれを言葉にし、態度で示して反論していた。
雛子はそんな彼が好きだった。排他的で、いつも一人で、それでも全然平気そうな彼が羨ましくて、憧れたのだ。
再会した清春は、いつも優しかった。雛子のことを気にかけてくれて、手を引いて歩いてくれる。悪戯にからかうことはあっても、強い言葉を使って雛子を傷つけるようなことはなかった。そんな彼に甘えていたのだと、帰宅した玄関で蹲った雛子は思う。
「……………ぅ…………う」
玄関をくぐり、扉を締めて鍵をかけ、そこが限界だった。靴を脱ぐのも億劫で、その場に座り込んで膝を抱える。一月の玄関は寒くて凍えそうな気温をしていた。それなのに、涙を流す自身の身体が熱くて、雛子は寒さを感じる余裕さえなかった。
清春が口にした言葉は全て正論だった。少なくとも、雛子はそう思う。だからこそ、彼の言葉が堪らなく胸に刺さった。はっきりとした彼が好きだったのに、はっきりと向けられた彼の言葉に傷付いてしまう自分自身を、雛子はまた、とても醜悪に感じてしまう。自己嫌悪がまるで胸の奥でとぐろを巻くようで、息苦しくて仕方がなかった。
いつもならば、土曜の夜に共に食事をしたのならば、そのまま雛子の家に行っただろう。けれど、一度空気が悪くなってしまうとそれが晴れることはなく、あのあとすぐに店を出て、そのまま別れて帰宅した。それまで堪えていた涙が、帰宅した途端に頬を伝う。彼の前で泣かなかったのは、泣けばそれこそ、まるで彼の言葉を責め立てるようで卑怯だと思ったからだ。
「…………な、さい………」
コートの裾が玄関に垂れることも気にならなかった。膝頭にぽたぽたと涙を落としながら、雛子は振り絞るように呟く。
謝って欲しい訳ではない、と清春は言った。けれど、雛子には謝罪の言葉以外、どうしてだって口に出来そうになかった。
その後一週間、雛子と清春は連絡を取ることはなかった。元々、清春は無精というほどではないが、自分からメッセージを送るような性格をしていない。話しかけるのは、いつも決まって雛子の方だった。そんな雛子は、彼に何と声を掛ければいいのか分からなくて、身動きが取れないままでいる。嫌われてしまったのではないだろうか、という幼稚な恐怖が彼女を支配していた。
金曜日の朝、通勤の支度を終え、仕事用にと思って購入した黒のパンプスに足を入れる。どちらかと言うと雛子はペール系の淡い色味を好んでいるが、通勤用の靴やバッグは着回しに役立つか、汚れの目立たないものを選んでいた。そういう意味で、このパンプスはよく活躍してくれている。ノーカラーのライトグレーのコートも同様だった。
ほとんど習慣のような、慣れた仕草でキーケースから部屋の鍵を取り出し、鍵を掛ける。二、三度ノブをおろしては引き、きちんと鍵が掛かっているかを確認した。
徒歩十分ほどの距離に雛子の最寄り駅がある。歩き慣れた道のりは、歩道と車道が明確に分けられていないので、慣れたとはいえ少し歩きにくい。朝の空気はぴんと張り詰めるように鋭く、耳が痛いほどに冷えていた。マフラーに顔を埋めながら足早に駅へ向かう。地上から階段を上り、自動改札機でICカード乗車券をタッチする。ホームへ降りれば目当ての電車がすぐに来た。
朝の特急電車はほとんど満員で、人混みに揉まれたくない雛子はいつも一本早い普通電車に乗って出勤する。何度か乗ったことはあるのだが、満員電車だけは、どうにも雛子は慣れることができなかった。窮屈で乗り心地が悪く、とうとう一度痴漢に遭ってしまったときに、ぽっきりと心が折れてしまったのだ。それ以来、時間に余裕がある限りは普通電車に乗るように心がけている。
雛子の降車駅に着くと、オフィス街だからだろう。人で溢れかえっていた。まるで雪崩のようだと思いながら、雛子も降車する。人混みに揉まれながら改札に向かっていると、後ろから走ってきた人に思い切りぶつかられた。
その拍子に足を捻ってしまい、突き飛ばされるようにしてその場に膝を着く。硬い地面の感触と、砂利でも転がっていたのか、細かな石でも刺さるように膝が痛んだ。
「すみません!」
幸い無様にすっ転ぶことこそなかったものの、その場に膝をついた雛子に対し、その人は足を止めることなく一言謝罪して走り去ってしまった。人通りの多い中、突然蹲った雛子の後ろから歩いてきた人たちが、よけきれずに彼女にぶつかる。すみません、と声を掛けてくれたが、何だか無性に惨めな気持ちになった。
溜息を一つ吐いて立ち上がる。膝についた汚れを払おうとして、タイツが破れていることに気付いた。それこそ小石大程度の穴だが、そこだけ白い肌が覗いている。あまりにも間抜けで、雛子はコンビニに寄って新しいタイツを買うことに決めた。
夏場でストッキングを履いていたならば替えを持ち歩いているが、厚手のタイツが破れることは早々無い。タイツの替えなど持ち歩いていなかった。
駅の目の前にちょうどコンビニが建っている。雛子はタイツと一緒に気に入っているチョコレートの菓子を手に取って、レジに向かった。雛子のように出勤前に立ち寄る人が多いのか、少々混み合っており、二つあるレジの前には四人が並んでいる。出勤時間にはまだ余裕があったので、雛子は悠長な気持ちでそこに並んだ。
レジの前の、揚げ物が陳列されている保温機能のついたショーケースをぼんやり眺めていると、新商品の紹介がされていた。既存の骨付きフライドチキンの、骨なしがタイプが発売されたらしい。日付を見てみれば今週の月曜日が発売日だった。
既存のタイプの方は、清春が好きだと言ってよく食べていたものだ。彼はもうこれを食べてみただろうか、と雛子は考える。彼がそういうものを好むと知ったのは、付き合い始めてからだ。嬉しそうにはにかんで齧りつく彼の顔を眺めるのが、雛子はとても好きだった。
そんな風に、彼の顔を思い出してみれば、浮かんでくるのは不安と寂寥だった。清春と過ごす時間が、雛子は単純に楽しかったのだ。手を繋いで歩いて、何でもないことで笑って、一緒にこたつで温もるような時間に、確かに満たされていた。十年前の思い出から始まった恋は、彼と接する度にどんどん降り積もっていく。
雛子は清春に嫌われたくない。仲直りがしたいと思っている。それに何より、彼に会えないことが、笑えるほど単純に、ただただ寂しかった。




