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 仕事の残り具合で多少前後するが、昼休みは毎日六十分と定められている。基本的には十 二時から十三時の間で取ることが常だった。しかし、その日の雛子は午前の仕事が押してしまい、普段より三十分近く遅れて昼食を取ることになった。

 食費を浮かす為にと手抜きをしながらもほとんど毎日作っている弁当を平らげ、自分の席で簡単な化粧直しを終えた雛子はトイレに行った。一人だけ遅れて休憩を取っているので、どうにも居心地が悪く、素早く移動する。廊下に出て、角を曲がる。階段の裏側の突き当りにトイレがあり、その手前には給湯室があった。トイレから出た雛子は、慌てて足を止めてトイレの影に隠れる。


「住吉さんってとろいよね」


 その声が聞こえて、心臓の裏側に鳥肌が立つような不快感を覚えた。その声には、明らかな嫌悪が滲んでいるようだ。声はよく聞き慣れたもので、同期である宝田美奈のものだと雛子はすぐに気づく。


「あー、要領が良いタイプではないよね」


 美奈に同意と取れる返事をするのは、もう一人の同期である松林あゆみ(まつばやしあゆみ)の声だった。彼女は特別雛子に対して距離を置いている訳ではないが、あゆみは美奈と仲が良い。美奈に嫌われている雛子は、あゆみとも世間話程度の会話しかしたことがなかった。


「反応鈍いし、何考えてるのか分かんないんだけど」

「まあ、美奈とはかなり方向性違うよね」


 雛子は自身の体温が急激に上がっていくのを感じる。暖房の届かない寒いトイレにいるのもあるのだろうが、その癖手先だけが異様に冷えていた。一月中旬の寒さは、ピリピリと空気を張り詰めさせる。

 ほとんどの人は昼休みが終わったばかりの時間帯で、きっと今この場に通りかかる人間はいないだろう。


「美奈はさあ、住吉さんのことを意識しすぎなんだよ。スルーしてればいいじゃん」

「………………やだ」


 たっぷりの沈黙の後、美奈は断りの言葉を口にした。それからゆっくりと、感情を押し殺したような声で口にする。


「私、あの人嫌いなんだよね」


 だから無視できないのだと言う美奈に、からかうようにあゆみが自業自得だねと笑って、二人はデスクに戻っていった。残された雛子は、自身の胸を右手で抑えて、その場に立ち竦む。


 雛子は絶望していた。

 それは、美奈に嫌われていることを決定付ける言葉を聞いてしまったからではない。そんなことはずっと前から、入社した当初から理解していた。だからこそ、雛子も彼女には近づかないようにしていたし、お互いに避け合っているような状況だった。


 雛子もまた、美奈のことを苦手としていた。あからさまに自身を見下してくる相手を、好きになれるはずがない。雛子は聖人君子ではない。全ての人を愛することなど出来ようはずもないのだ。


 では、何故、雛子は絶望したのか。

 嫌われていることは察していた。それでも、彼女の口からはっきりと『嫌い』という言葉が発せられるのは、今初めて聞いた。

 それを聞いて雛子は、傷付いたのだ。心臓が捻れるように収縮し、全身の血液循環が阻害され、指先が震えるような気さえした。それほどまでに、雛子は美奈に『嫌い』だとはっきりと口にされたことに傷付いた。


 彼女はそのことに絶望した。自分だって美奈のことを避け、平然と彼女を嫌っておきながら、自身が嫌われると容易く傷付いてしまう、そんな自身の弱さにこそ絶望した。無意識に心の奥底に根を張る、誰にも嫌われたくない、という幼さが、彼女の心を蝕んでいた。

 世の中に、合わない人同士というのは必ず存在する。嫌われることも嫌うことも、ある意味では自然なことなのだ。それでも傷つく自分の心の幼さが、雛子にはどうしても浅ましく映った。









 雛子は立ち聞きしてしまった二人の会話を、その一週間ずっと引きずっていた。自分への失望はそのまま雛子の元々ささやかであった自信を消失させ、それまで以上に美奈のことを避けるようになっていた。なるべく目を合わせないようにし、仕事以外では彼女の視界に映ることさえ億劫だった。そうした雛子の態度がまた美奈に嫌悪を抱かせるのだろう、と思いつつも『嫌い』だという言葉は雛子の心に爪痕を残していた。


 だからこそ、金曜の仕事を勤め上げ、土曜の夜に清春に会えたときには、ようやく休日の実感が湧いてきて、ほっと安堵の息を吐いたものだった。彼と会うのは先日共に初詣に行ったとき以来で、単純に会いたい、と思っていた雛子は清春と顔を合わせるだけで嬉しかった。


 先日から約束していた通り、二人は焼鳥屋に来ていた。お酒と、とりあえず、とももとせせりとハート、なんこつのからあげを注文する。タレか塩かを選べるのだが、お互いにタレの方を好んでいるようだった。


「焼鳥好きなの?」


 届いたももを食べながら、雛子が問いかける。今日焼鳥屋へ来ることになったのは、清春が突然焼鳥食べたい、と言い出したからだ。


「好きだな。好物とまでは言わないけど、時々無性に食べたくなる。雛子は好きじゃなかったか?」

「ううん、好きだよ」


 そう答えれば、清春は何故だか嬉しそうに目を細めた。彼の希望に二つ返事で頷いた形だったので、気を使ってくれていたのかもしれない。

 しばらく他愛のない話をしながら食事をした。清春から千穂がまた一緒に食事をしたいと言っていたと聞いて、雛子は堪らなく嬉しくなった。彼が語る聖司との思い出話にも、雛子はうんうん、と興味深げに相槌を打つ。そんな中で、清春の職場での話を聞くことになった。彼は上司に可愛がられ、同僚とも上手くいっているようで、彼の口からは楽しそうな話題ばかりが上る。最近年上の後輩ができたようで、教えるのが難しいとも言っていた。


 職場でも上手く付き合っている様子の清春と、自身の現状を比べ、雛子はだんだん気分が沈んできた。どうして自分も、彼のように上手く出来ないのだろう。嫌われてしまい、そんなことで落ち込んでしまうような、自分の弱さが情けなかった。もういい大人であるのに。どうしてもっと、上手く受け流せないのか。もっと上手く、立ち回れないのか。


「どうかしたのか?」


 そんな思いが顔に出ていたのだろう。ハートの最後の一つに歯を立てて串から引き抜いた清春が、雛子の顔を覗き込んでいた。彼は優しい。いつも雛子に優しくしてくれる。だから雛子は、自分自身に幻滅してしまっている今、縋りたいと無意識にも思ってしまった。


「…………私、職場の同期によく思われてなくて、元々そうだったんだけど、この間はっきり嫌いだって言われてるのを聞いちゃって………」

「あー……そりゃあまた、災難な」


 清春の相槌はゴムボールでも投げるように軽く、それがむしろ雛子には話しやすかった。深刻に聞いてもらう以上に、愚痴を口にすることを許されたような気持ちになれる。


「私、それに落ち込んじゃって、分かってたことなのに、受け流せなくて、ほんと子どもで、それが情けなくて。だめだよねえ、自分だってその人のこと苦手だし、嫌いなんだよ。でも嫌われるのは嫌なの。怖いなって思うの」


 話していると、だんだん目頭が熱くなってくるのを感じた。それを誤魔化すように、泣いてしまわないように、雛子は無理矢理笑って言葉を続ける。


「私最低だよね。弱くて、格好悪いよね。ごめんね、こんなこと言って」


 清春は彼女の言葉を黙って聞いていた。膝の上で拳を握りしめ、俯いて机の縁を見つめながら話していた雛子は、恐る恐る顔を上げる。

 ―――すっと肝が冷えた。


「僕はそういうの、好きじゃないな」


 雛子の腹の底で正体の分からない悪いものがぐるぐると渦巻く。美奈の『嫌い』を聞いたときとは比べ物にならないほど心臓がバクバクと大きく脈動し、急激に体温が上がる。屋内の飲食店とはいえ一月であるのに、一気に背中に冷や汗が噴き出した。


「自分のことを過剰に下げるような言い方は、謙虚でもなんでもないからな。相手に否定の言葉を許さない遠回しの命令だろ。僕にはそんなことないだろ、って否定されるのを期待してるようにしか聞こえない」


 清春の言葉が、鋭い刃のように雛子の心に突き立てられる。咄嗟に否定したいと思った。そんなつもりはない、と。けれどすぐに否定出来るだろうか、と口ごもった。少しも、彼からの否定の言葉を求めていなかったかと問われれば、けして頷くことはできなかった。


「それはさあ、卑怯だろ。別に人に嫌われて落ち込むことに子どもだとか情けないとかちっとも思わないけど、それはずるい」


 正論だった。正論だと、雛子は思った。だからこそ、その言葉は吐きそうな程に胸に突き刺さり、雛子のことを責め立てる。


「………………ごめん、なさい………」

「別に謝れって言ってるんじゃないけど」


 思わず、と言ったように出てしまった謝罪の言葉は、受け取ってもらうことも出来なかった。





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